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蒙求和歌
第3第4話(39) 袁盎却座 女郎花
校訂本文
袁盎却座 女郎花
漢の文帝の、上林の御幸(みゆき)に、慎夫人といへる女御、傍らにあり。袁盎、立寄りて、夫人の座をしりぞけり。おほやけ1)、御気色変り、夫人、怒(いか)れる色あり。
袁盎がいはく、「おほやけは后(きさき)あり、妾あり。夫人は妾なり。妾はおほやけと床(ゆか)を一つにすることなし。昔の人彘(じんてい)がためしを思ひ知れ」と言ひけり。おほやけ、袁盎が2)かしこき心を讃めて、金五十斤を賜はせけり。
「人彘がためし」と言へるは、漢の高祖3)の后(きさき)、呂太后4)の太子孝 恵を生めり。また、戚夫人が腹に趙王如意を生めり。夫人、御志深かりけるゆゑに、東宮孝恵を5)捨てて、趙王を東宮に立てかへむとし給ひけるを、呂太后も歎き、世人(よひと)もかたぶきけり。
張良、謀(はかりごと)をめぐらして、商山の四皓を語らふに、四皓、山より出でて、東宮へ参りけり。高祖これを見給ひて、四賢一つ心に来たり助け奉ることを、心にくきことに思しして、東宮立てかふべきことを思ひとどまり給ひぬ。
また、高祖、隠れ給ひて後、孝恵、位に即き給ひぬ。呂太后、趙王を失ひ、夫人を失なはむとするを、孝恵帝、情け深き6)心にて、このことを悟りて、趙王を身にそへ、夫人をはぐくみ給へども、帝、弓射給ふ折、趙王の一人居給へるをうかがひて、鴆酒を飲ませてけり。夫人をば、足・手を切り、耳をふすべ、薬を塗りて、鬼のやうに作りなして、厠の下(もと)に置きて、人彘(じんてい)と名付けけり。恵帝、悲しみ憂へ給ひけり。
鴆酒といへる、毒酒なり。鴆といふ鳥あり。蛇(くちなは)を呑み食らふなり。その鳥の毛入れたる酒なり。また、鴆の羽(は)を酒に入れて飲ませて殺せりとも言へり。
恵帝、この後、世の政(まつりごと)を行はず、病に沈み給ひてけり。人彘が霊、呂后とり殺してけり。
父呂公、昔、呂后を見ていはく、「幸貴の身なれども、千夫の相あり」と言へりけり。高祖一人がほか、見えたる人なくして死ぬ。墓に納めて、帳床・屏風の飾り、生きたりし時のごとし。
次の日、狩猟人千余人、鷹を据ゑて犬を引きて、雨にあひて日暮れぬ。塚のもとに帰りて、おのおの集まり宿れり。内に美人あり。もの言ふことなし。その身をまさぐるに、膚(はだへ)温かにして、なつかしき匂ひなりければ、一人、二人、近付き逢ひにけるほどに、見羨(うらや)みつつ、「われも、われも」と争ふほどに、九百九十九人に当るたび、その身、溶け失せにけり。猟人(かりびと)、誰といふことを知らず。後にこそ、呂后7)とは知りにける。高祖を加へて千人の相むなしからずぞありける。
女郎花(おみなへし)玉の籬(まがき)は心せよさてぞ昔も露にしをれし
翻刻
袁盎(ヱンアウ)却座 女郎花 漢の文帝の上林のみゆきに慎(しむ)夫人といへる女御かたはらに有り/d1-21l
袁盎たちよりて夫人の座をしりそけりをやけ御けしき かはり夫人いかれる色あり袁盎か云くをほやけはきさき あり妾あり夫人は妾なり妾はをほやけとゆかをひ とつにする事なし昔の人彘(てい)かためしを思ひしれと云けり をほやけ袁盎かしこき心をほめて金五十斤をたまはせけり 人彘(てい)かためしと云るは漢の高祖のきさき呂大后の太子孝 恵をうめりまた戚夫人かはらに趙王如(によ)意をうめり夫人 御志ふかかりける故に東宮孝恵すてて趙王を東宮にたてか へむとし給ひけるを呂大后もなけきよひともかたふきけり張 良はかりことをめくらして商山の四皓をかたらふに四皓山 よりいてて東宮へまいりけり高祖これをみたまいて四賢ひと つこころにきたりたすけたてまつることをこころにくきことにをほ して東宮たてかうへきことををもひととまりたまひぬ又高祖 かくれたまひてのち孝恵くらひにつきたまひぬ呂大后趙王を/d1-22r
うしなひ夫人をうしなはむとするを孝恵帝な□□かき こころにてこのことをさとりて趙王をみにそへ夫人をはくくみ たまへとも帝ゆみいたまふをり趙王のひとりゐたまへるをうかか ひて鴆(けん)酒をのませてけり夫人をはあしてをきりみみを ふすへくすりをぬりてをにのやうにつくりなして厠の 下(もとに)をきて人彘(てい)となつけけり恵帝かなしみうれへた まひけり鴆酒といへる毒酒なり鴆と云鳥有りくちなはを のみくらふなりその鳥の毛入たる酒也また鴆のはを酒入て のませてころせりとも云り恵帝この後よのまつりことををこな はすやまひにしつみたまひてけり人彘か霊呂后とりころして けり父呂公昔呂后をみて云く幸貴のみなれとも千(ちちの)夫の 相ありといへりけり高祖一人かほかみゑたる人なくして しぬはかにをさめて帳床屏風のかさりいきたりし ときのことしつきの日狩猟人千余人たかをすへていぬを/d1-22l
ひきて雨にあひて日くれぬつかのもとにかへりてをのをの あつまりやとれり内に美人有りもの云ことなしそのみをまさ くるにはたへあたたかにしてなつかしきにほひなりけれは ひとりふたりちかつきあひにけるほとにみうらやみつつ われもわれもとあらそうほとに九百九十九人にあたるたひ そのみとけうせにけりかりひとたれと云ふことをしらす 後にこそ呂公とはしりにける高祖をくはへて千人の相 むなしからすそありける をみなへしたまのまかきはこころせよさてそむかしもつゆにしをれし/d1-23r