唐鏡 第六 魏蜀呉より余晋恭帝にいたる
1 魏 文帝(曹丕)・蜀 劉備・呉 孫権
校訂本文
後漢の次は魏蜀呉と号して、三国同時に並び立てり。魏を正統とせり。土徳なり。漢の相国、曽参が後なり。
魏文帝1)、諱(いみな)は丕(ひ)、字(あざな)は子桓。太祖曹操の太子なり。生まれ給ひし時、青雲の気ありて、車蓋の如くして、その上に見えける。めでたき瑞相と申しき。八歳にして文に属し、逸才ありて、古今の事を悟り、騎射し、剣を好み給ふ。
延康元年冬十月に、漢の禅を受けて位に即き給ふ。年号を黄初と改めらる。今年庚子年ぞ日本国神功皇后二十年に当たりし。
蜀の先主、姓は劉、諱は備、字は玄徳。漢の景帝2)の子、中山王勝3)が後なり。若くして孤子なり。母ともろともに履(くつ)を売り、廗を売りて業とし給ふ。舎の東南の角の籬上に、桑樹一本あり。高さ五丈余りなり。車蓋の如くなり。行き来の者、この木を怪しみて、「貴人の出で給ふべき験(しるし)」とぞ申しける。先主、身の長(たけ)七尺五寸、垂れたる手膝に過ぎ、目に耳を見、言語少なく、喜怒色に顕はれず。
章武元年夏四月に、成都にして帝位に即き給ふ。諸葛亮を丞相とす。葛亮、身の長八尺、古(いにしへ)の管仲に比す。諸葛孔明臥竜といへり。沁陽4)といふ所に、水を前にし山を後にして、白石畳みて八陣の図を作れり。
先主の蜀の主となれるは、偏(ひとへ)に葛亮が力なり。先主は「孤(こ)の孔明あるは、魚の水に在るがごとし」とぞのたまふ。「魚水の契」といふは、これより起こるなるべし。
呉の孫権、諱は権、字は仲謀。孫武が後なり。方頤(はうい)大口、目に精光あり。魏の黄初二年八月に、呉王に封ぜらる。
黄初四年夏六月に大に雨降りて流死る者多し。
蜀の章武三年夏四月に、先主5)、永安宮にして隠れ給ひぬ。年六十三、在位三年なり。諡を昭烈皇帝とす。その御子6)禅を受け後主と称す。先主、病〓き7)時に、諸葛亮を召して、後事をのたまひらく、葛亮、涙をたれて、股肱(ここう)の力を尽くすへしと申す。先主、すなはち後主に勅してのたまはく、「なんぢ丞相と事を行なへ。丞相につかへんことは、父の如くすべし」となり。葛亮、武都侯に封ぜらる。政事、巨細となく葛亮にぞ決せられける。
黄初七年五月、帝8)、嘉徳殿に崩じ給ひぬ。御年四十六、在位七年なり。この帝、文章を好み給ひて、詩篇多くとどまり、その中に、「秋風蕭瑟天気涼、草木揺落露為霜。(秋風蕭瑟として天気涼し、草木揺落して露霜と為る。)」この句やさしく優美にして、今までも申し侍りし。
翻刻
唐鏡第六 魏蜀呉ヨリ餘晋恭帝ニイタル 後漢ノ次ハ魏蜀呉ト号シテ三国同時ニナラヒタテリ魏ヲ正統トセリ 土徳也漢相国曽参カ後也 魏文帝諱ハ丕字ハ子桓太祖曹操ノ太子也生給時青 雲ノ気アリテ如クシテ車蓋ノ其上ニミエケル目出キ瑞相ト申キ八歳ニシテ 文ニ属シ逸才アリテ古今ノ事ヲ悟リ騎射シ釼ヲ好玉フ延康元年 冬十月ニ漢ノ禅ヲ受テ位ニ即玉フ年号ヲ黄初ト改ラル今年庚子 年ソ日本国神功皇后廿年ニ当リシ 蜀先主姓劉諱備字玄徳漢景帝ノ子中山王/s152l・m267
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勝カ後也若クシテ孤子也母ト諸共ニ履ヲ売廗ヲ売テ業トシ玉フ 舎ヲ東南ノ角ノ籬上ニ桑樹一本アリ高五丈餘也如 車蓋ノ也ユキキノ者此木ヲアヤシミテ貴人ノ出玉フヘキ験トソ 申ケル先主身ノ長七尺五寸タレタル手膝ニスキ目ニ耳ヲ 見言語少ク喜怒色ニ不顕 章武元年夏四月ニ 成都ニシテ帝位ニ即玉フ諸葛亮ヲ丞相トス葛亮身ノ長 八尺古ノ管仲ニ比ス諸葛孔明臥龍トイヘリ沁陽(インヨウ)ト云 所ニ水ヲ前ニシ山ヲ後ニシテ白石畳ミテ八陣ノ図ヲ作レリ先 主ノ蜀ノ主トナレルハ偏ニ葛亮カ力也先主ハ孤ノ孔明アルハ 魚ノ如在水トソノ給魚水ノ契ト云ハ是ヨリ起ナルヘシ/s153r・m268
呉孫権諱ハ権字仲謀孫武カ後也方頤大口目ニ 精光アリ魏ノ黄初二年八月ニ呉王ニ封セラル黄初四年 夏六月ニ大ニ雨降テ流死ル者多シ蜀ノ章武三年夏四 月ニ先主永安宮ニシテ隠給ヌ年六十三在位三年也 諡ヲ昭烈皇帝トス其御子禅ヲ受後主ト称ス先主病 〓キ時ニ諸葛亮ヲ召テ後事ヲノ給ヒラク葛亮涙ヲタレテ股 肱ノ力ヲ尽スヘシト申ス先主則後主ニ勅シテノ給ハク汝丞相ト 事ヲヲコナヘ丞相ニツカヘン事ハ父ノ如クスヘシトナリ葛亮武 都侯ニ封セラル政事巨細トナク葛亮ニソ決セラレケル 黄初七年五月帝嘉徳殿ニ崩給ヌ御年四十六在/s153l・m269
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位七年也此帝文章ヲ好給テ詩篇多クトトマリ其中ニ秋風 蕭瑟天気涼草木揺落露為霜此句ヤサシク優美ニシテ 今マテモ申侍シ/s154r・m270