唐鏡 第五 後漢光武より献帝にいたる
9 後漢 孝章帝
校訂本文
第三の主をば粛宗孝章帝1)と申しき。諱は炟(たつ)2)。顕宗3)第五の御子なり4)。御母を賈貴人(かきじん)と申す。永平三年に皇太子に立ち給ふ。儒術を好み給ふをぞ、顕宗讃め給ひし。
御年十九にて位に即き給ふ。建初三年、貴人竇氏(きじんとうし)5)を皇后に立て給ふ。
この御時、戊己校尉耿恭(ぼきかうゐかうきよう)といふ者をして匈奴(きようど)を攻めにつかはす。金蒲城(きんほせい)にして、耿恭、城の上に登りてうち戦ふ間、毒薬を箭(や)に付けて射るとき、匈奴に語り、「漢家の箭は神なり6)。当たらん傷は必ず異ることあるべし」とて射るに、箭に当たる者傷を見るに、ことごとくに沸く。また、にはかに風雨おひたたしくして、死ぬる者はなはだ多し。匈奴、震ひ怖ぢていはく、「漢の兵は神なり。まことに恐るべし」とて、解(と)けて去りぬ。
かかるほどに、匈奴また来たり攻む。疏勒城(そろくせい)7)といふ城の傍らに澗水(かんすい)あり。その水をば流れを断ちて、城の内に井を掘る。深さ十五丈ばかりなるに、水出でず。吏士(りし)水に埋みて馬の糞(くそ)の汁をしたみて飲む。耿恭、天にあふひて歎きていはく、「昔、弐師将軍8)、佩刀(はいたう)を抜きて山を刺ししかば、飛泉湧き出でき。今、漢の徳神明なり。窮(きは)まることあらんや」とて、衣服をつくろひて、井に向きて再拝して、吏士のために祷(いの)ることねんごろなるに、しばらくありて、水泉走り出でたり。衆みな万歳よばふ。水をあけて虜(りよ)に見するに、「神明なり」と思ひて、また引きて去りぬれども、救ひの兵至らざる間、匈奴なほ耿恭を攻む。
恭、この時に食尽きて、窮困(きゆうこん)のあまり、鎧(よろひ)・弩(ゆみ)を煮て、その筋を食ひて、士と死生(しせい)を同じくして二心なけれども、多く死亡して9)、わづかに数千人ぞありける。
この時帝、あまた兵をつかはしつ。二千人を分かちて耿恭を迎へて、ともに帰り参りぬ。勧賞(けんじやう)行なはれて、騎都尉になされぬ。「万死を出でて一生の望なし」とは、この耿恭がいさみなり。
章和元年冬十月、月氏国より師子10)を奉る。
二年春正月、帝、章徳前殿にして崩じ給ひぬ。御年三十二、在位十三年なり。
翻刻
第三主をは粛宗孝章(シクソウカウシヤウ)帝と申き諱は炟(クワ)(タツイ)顕(ケン)宗第五(御子也イ) 御母を賈貴人(カクヰシム)と申す永平三年に皇太子に立 給儒術(シユシユツ)をこのみ給をそ顕宗(ケンソウ)ほめたまひし御年/s136r・m242
十九にて位に即給建初(ケンソ)三年貴人竇氏(クヰシントウシ)を皇后に立 たまふこの御時戊己校尉耿恭(ホキカウヰカウクヰヨウ)といふものをして匈(クヰヨウ)奴 をせめにつかはす金蒲城(キンホセイ)にして耿恭(カウクヰヨウ)城の上にのほり てうちたたかふあひた毒薬を箭(ヤ)につけて射とき (イ匈奴ニ語テ漢家ノ箭ハ神也)あたらんきすは必異なることあるへしとているに箭に あたるものきすを見るにことことくに沸く又(ヌイ)にはか に風雨おひたたしくしてしぬるものはなはたおほし 匈奴ふるひをちていはく漢の兵は神なりまことに おそるへしとて解(トケ)てさりぬかかるほとに匈奴またき たりせむ疏勒城(ソホクセイ)といふ城の傍に澗水(カンスイ)あり其水をは/s136l・m243
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/136?ln=ja
なかれをたちて城のうちに井をほるふかさ十五丈は かりなるに水いてす吏士(リシ)水にうみて馬の糞(クソ)の汁 をしたみてのむ耿(カウ)恭天にあふひてなけきていはく 昔弐師(シシ)将軍佩刀(ハイタウ)を抜て山を刺(サシ)しかは飛泉湧出 き今漢(カン)の徳(トク)神明なり窮まることあらんやとて衣 服をつくろひて井に向て再拝(サイハイ)して吏士のために祷(イノル) ことねんころなるにしはらくありて水泉はしりいて たり衆みな万歳よはふ水をあけて虜(リヨ)に見するに 神明なりとおもひて又引てさりぬれとも救(スクヒ)の兵 いたらさるあひた匈奴(クヰヨウト)なを耿(カウ)恭をせむ恭このときに/s137r・m244
食つきて窮困のあまり鎧(ヨロヒ)弩(ユミ)を煮(ニテ)その筋を食て 士と死生(シセイ)をおなしくして二心なけれともおほく死を(亡イ) 已てわつかに数千人そありけるこのときみかと あまた兵をつかはしつ二千人をわかちて耿恭 をむかへてともにかへりまいりぬ勧賞(ケンシヤウ)をこなはれ て騎都尉(キトヰ)になされぬ万死をいてて一生の望なし とはこの耿恭かいさみなり 章和元年冬十月月氏国より師子をたてまつる 二年春正月帝章徳前殿(シヤウトクセンテン)にして崩給ぬ御年卅二 在位十三年也/s137l・m245