唐鏡 第三 漢高祖より景帝にいたる
12 漢 孝文帝(2 肉刑の廃止など)
校訂本文
二年夏五月に進善(しんぜん)の旌(はた)、誹謗の木を立て給へり。四年夏六月に雪降れりき。六年冬十月に桃李花咲く。十二年、角(つの)生ひたる馬出で来たれりき。よからざりしことなり。
十三年五月、斉の大倉令(たいさうれい)淳于公1)といふ者、罪ありて刑せらるべしとて捕へらる。大倉公、男子なくして女子五人あり。大倉公、その女(むすめ)を罵(の)りていはく、「子を生めとも男を生まず。益(えき)あるにあらず」と言ふ。その少女緹縈(ていゑい)といふ者、いたみ泣きて、その父に従ひて長安2)に至る。書(ふみ)を奉りて申さく、「妾(せう)の父、吏(り)として斉中廉平(れんぺい)を称す。今、法に座して刑せらるべし。妾いたむらくは、死ぬる者はまた生くべからず。刑せらるるものは、また属(しよく)すべからず。妾願はくは、没入して官の婢(ひ)となりて、父が罪を贖(あがな)はむ」と言へり。
この書3)を文帝4)見給ひて、その心ざしを憐れみ悲しみ給ふ。すなはち詔(せう)してのたまはく、「有虞氏5)の時、衣冠を画(えが)き、章服を異(こと)にせられしに、民おかさずして治まれり。いま法に肉刑(ぢくけい)三つあり。三つあれども、姦(かん)やまず。その過(とが)われにあり。『愷悌(がいてい)君子は民の父母なり』と言へり。今、人あやまりありとて刑を加ふることよしなし。民の父母たる心にかなはず」とて、肉刑をは除かれぬ。
肉刑といふは、支体(してい)を断ち、肌膚(きふ)を刻みて、身を終るまてにやまざるなり6)。昔、尭舜の御時は、罪過あるものには、人に代はりたる冠、上の衣(きぬ)なとを着せて、刑せらるることはなかりしかども、恥ぢ思ひて、罪犯すをかすものなかりき。今の世には、刑はあれども、やむごとなきを、わが御過(とが)と思し召したるにや。
またのたまはく、「農7)は天下の本なり。籍田(せきてん)を開け」とて、みづから率ゐ耕(たが)へし給ひて、宗廟の粢盛(しせい)にぞ当てられける。
また、天下に旱蝗(かんくわう)ある時は、諸侯の入貢をとどめられ、もろもろの服御(ふくぎよ)、狗馬(こうま)なども減ぜられ、倉を開きて貧民8)にぞ物賜ひける。
翻刻
大にいてたり二年夏五月に進善(シンゼン)の旌(ハタ)誹謗(ヒハウ)の木をた て給へり四年夏六月に雪ふれりき六年冬十月 に桃李(タウリ)花さく十二年角おひたる馬いてきたれり きよからさりし事也十三年五月斉(セイノ)大倉令(タイサウレイ)淳于 公といふもの罪(ツミ)ありて刑(ケイ)せらるへしとてとらへら/s84r・m152
る大倉公男子なくして女子五人有大倉公その女(ムスメ) を罵(ノリ)ていはく子をうめとも男をむます益(エキ)あるに あらすと云その少女緹縈(テイヱイ)といふものいたみなきてそ の父にしたかひて長安(イ大)にいたる書(フミ)をたてまつりて まうさく妾(セウ)の父吏(リ)として斉中廉平(レンヘイ)を称す今 法に坐(サ)して刑せらるへし妾いたむらくは死ぬ るものは又いくへからす刑せらるるものは又属(シヨク)すへから す妾ねかはくは没入して官の婢(ヒ)となりて父 か罪をあかなはむといへりこの書(イ事)を文帝み給て その心さしをあはれみかなしみ給すなはち詔(セウ)しての/s84l・m153
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/84
給はく有虞氏(イウクシ)の時衣冠を画(ヱカ)き章服を異(コト)にせら れしに民おかさすしておさまれりいま法に肉刑(ヂクケイ)三 あり三あれとも姦(カム)やます其とかわれに有愷悌(カイテイ)君子(クンシ) は民の父母なりといへり今人あやまりありとて 刑をくはふる事よしなし民の父母たる心にか なはすとて肉刑(ジクケイ)をはのそかれぬ肉刑と云は支体(シテイ) をたち肌膚(キフ)をきさみて身を終(ヲワル)まてにやま す(イさ)る也むかし尭舜(ケヲシム)の御時は罪過(サイクワ)あるものには人に かはりたる冠うへのきぬなとをきせて刑せらるる 事はなかりしかともはち思ひて罪をかすものなかり/s85r・m154
き今の世には刑はあれともやむ事なきをわか 御とかとおほしめしたるにや又宣く農(ナリハイ)は天 下の本也籍田(セキテン)をひらけとてみつから率(ヒキヰ)耕(タカヘシ)たまひ て宗廟の粢盛(シセイ)にそあてられける又天下に旱(カン) 蝗(クハウ)ある時は諸侯の入貢(コウ)をととめられもろもろの服御(フクキヨ) 狗馬(コウマ)なとも減(ケム)せられ倉(クラ)をひらきて貧(マツシキ)民にそ 物たまひける此御時盗(ヌスヒト)ありて高廟の座の前の/s85l・m155