text:karakagami:m_karakagami2-31
唐鏡 第二 周の始めより秦にいたる
31 秦 子嬰
校訂本文
子嬰(しえい)は始皇1)の孫、扶蘇(ふそ)の子なり。子嬰、二の子と謀(はか)りていはく、「趙高、二世2)を殺して、誅を怖(お)ぢて、偽りてわれを立つ。われ聞く、趙高、楚と約して秦を分くなり。今われをして広中(くわうちう)に斎(さい)せしめて、われを殺さむとなり。病を称して行かずば、趙高、必ずみづから来たらん。来たらば、必ず殺さん」と思ひて、子嬰行かざるに、趙高、果して来たれり。子嬰これを刺し殺して、三族3)を亡ぼす。
この趙高を井の中に七日置くに死なず。鑊(かま)に入れて煮るに七日沸かす。とかくして殺しつ。初め捕はるる時に、一の青丸(せいぐわん)の雀の卵(かいご)のほどなる、懐中にあり。韓終(かんしう)の丹法(たんはう)を受けて、冬は氷に臥し、夏は火の上に臥しけり。死にて後、屍4)の中より、一つの青雀飛び出でて、雲に入りける。九転の駖5)なり。
子嬰、位につきて四十六日といふに、頸(くび)にかくるに組(くみ)をもてし、素車(そしや)白馬して、皇帝の璽綬(じじゆ)をささげて、沛公(はいこう)6)にくだる。その後、項羽至りて子嬰を殺し、咸陽を屠7)り、始皇の塚を堀る。また秦の宮室を焼くに、その火三月まで消えずして、咸陽宮の煙片々たりしなり。荘襄王周を亡ぼしし年より、子嬰亡ぶる年までは、五十年とぞ覚え侍りし。
翻刻
子嬰は始皇の孫扶蘇の子也子嬰二の子とはかりていはく趙高 二世をころして誅ををちていつはりて我をたつ我きく趙高楚 と約して秦を分なりいまわれをして広中(クワウチウ)に斉せしめ てわれをころさむとなり病を称してゆかすは趙高かなら すみつからきたらんきたらはかならすころさんとおもひ て子嬰ゆかさるに趙高果(ハタ)して来れり子嬰これをさしころ/s56r・m102
して三族(イン)をほろほすこの趙高を井の中に七日をくに死な す鑊(カマ)に入て煮(ニル)に七日沸(ハカス)すとかくして殺しつ初とらは るる時に一の青丸(セイクワン)の雀の卵(カイコ)のほとなる懐中にあり韓終(カンシウ) 丹法(タンハウ)を受て冬は氷に臥し夏は火の上に臥けり死て 後屍(ホフル)(イ身)の中より一の青雀飛出て雲に入ける九転の駖(レイ/チマタ)なり 子嬰位につきて四十六日といふに頸(クヒ)にかくるに組(クミ)をもてし 素車(ソシヤ)白馬(ハクハ)して皇帝の璽綬(シシウ)をささけて沛公(ハイコウ)にくたるそ ののち項羽(カウウ)いたりて子嬰をころし咸陽を屠(ホフ/ウテヤフルコト)り始皇の 塚を堀る又秦の宮室を焼に其火三月まてきえすして 咸陽宮の煙片(ヘン)々たりしなり壮襄(サウシヨ)王周をほろほしし/s56l・m103
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/56
年より子嬰ほろふる年まては五十年とそおほえ侍し/s57r・m104
text/karakagami/m_karakagami2-31.txt · 最終更新: 2022/12/26 01:34 by Satoshi Nakagawa