今昔物語集
巻6第3話 震旦梁武帝時達磨渡語 第三
今昔、南天竺に、達磨和尚と云ふ聖人在ましけり。其の弟子に、仏陀耶舎1)と云ふ比丘有り。
達磨、仏陀耶舎に語て宣はく、「汝ぢ、速に震旦国に行て、法を伝ふべし」と。耶舎、師の教へに依て、船に乗て、震旦に渡ぬ。法を伝へむと為るに、国に比丘数千人有て、各勤め行ふ。此の耶舎の説く所の法を聞て、一人として信ずる者無し。終に、耶舎を追却して、廬山の東林寺と云ふ所に追ひ遣りつ。
而るに、其の廬山に、遠大師と云ふ止事無き聖人有り。其の人、此の耶舎の来れるを見て、請じ入れて、問て云く、「汝ぢ、西国より来れり。何(いか)なる仏法を以て、此の土に弘めむとして、此の如く追るるぞ」と。其の時に、耶舎、言に答へずして、我が手を捲(にぎつ)て開く。其の後、此の事、疾や否や」と云ふ。遠大師、「即ち、手を捲るは煩悩也。開くは菩提也」と悟て、煩悩と菩提と一つ也と云ふ事を知ぬ。
其の後、耶舎、其の所にして死ぬ。其の時に、大師達磨、遥に天竺にして、弟子耶舎が震旦にして死たる事を空に知給て、自から船に乗て、震旦に渡り来る。
其の時、梁の武帝の代也。而る間、武帝、大なる伽藍を建立して、数体の仏像を鋳造り、塔を起て、数部の経巻を書写して、心に思はく、「我れ、殊勝の功徳を修せり。此れ、智恵有らむ僧に見しめて、讃められ貴ばれむ。此の国に、此来(このごろ)2)智恵賢く、貴き聖人は誰か有る」と尋ねらる。人有て申さく、「近来、天竺より渡れる聖人有り。名を達磨と云ふ。智恵賢く、止事無き聖人也」と。武帝、此れを聞て、心に喜て、「其の人を召して、伽藍・仏経の有様を見しめ、讃歎されむ。亦、貴き功徳の由を聞て、弥よ殊勝の善根修せりと思ふべき也」と思給て、達磨和尚を召しに遣はす。
和尚、即ち、召しに随て、参り給ひぬ。此の伽藍に迎へ入れて、堂塔・仏経等を見しめて、武帝、達磨に向て宣はく、「我れ、堂塔を造り人を度し、経巻を写し、仏像を鋳る。何なる功徳か有る」と。達磨大師、答て宣はく、「此れ、功徳に非ず」と。
其の時に、武帝、思給はく、「『和尚、此の伽藍の有様を見て、定て讃歎し貴ぶべし』と思ふに、気色、糸冷気(すさまじげ)にて、かく云ふは、頗る心得ず」思ひ給て、亦、問て宣はく、「然らば、何を以てか、功徳に非ずと知るべき」と。達磨大師、答て云く、「此の如く、塔・寺を造て、『我れ、殊勝の善根を修せり』と思ふは、此れ、有為の事也。実の功徳には非ず。実の功徳と云は、我が身の内に、菩提の種の清浄の仏にて在ますを、思し顕すを以て、実の功徳とは為る。其れに比ぶれば、此れは功徳の数にも非ず」と申し給ふに、武帝、此れを聞き給ふて、心に叶はず思給て、「此れは何(いかに)云ふ事にか有らむ。我れは。『並び無き功徳、造たり』と思ふに、かく謗るは、思ふ様有て云ふ事也けり」と、悪き様に心得給て、大師を追却し給ひつ。
大師、追却せられて、錫杖を杖に突て、□山3)と云所に至り給へり。其の所にして、会可(えか)禅師4)と云ふ人に値ぬ。此の人に仏法を皆付嘱し給ひつ。
其の後、達磨大師、其の所にして死給ひぬ。然に、門徒の僧等、達磨を棺に入れて、墓に持行て置つ。
其の後、二七日を経て、公の御使として、宋雲と云ふ人、物5)へ行くに、葱嶺の上にして、一人の胡僧に値ひぬ。片足には草鞋を着たり。今片足は跣(はだし)也。胡僧、宋雲に語て云く、「汝ぢ、知るべし。国の王、今日失せ給ひぬ」と。宋雲、此れを聞て、紙と取り出して、此の日月を記しつ。
宋雲、月来6)を経て、王城に返り来て聞けば、「帝、既に崩じ給ひき」と云ふ。其の時に、記せし所の日月を思ふに、違ふ事無し。彼の葱嶺7)の上にして、此の事を告げし胡僧を、「誰人ならむ」と思ふに、「達磨和尚也けり」と知て、朝庭の百官と、并に達磨門徒の僧等と相共に、実否を知らむが為に、彼の達磨の墓に行て、棺を開て見るに、達磨の身、見給はず。只、棺の中に履の片足のみ有り。
此れを見て、「葱嶺の上に値たりし胡僧は、定めて達磨の草鞋の片足を着て、天竺へ返り給ける也けり。片足棄ると有は、震旦の人に、此く知らしめむが故也けり」と、皆人知ぬ。
然れば、国挙て、「止事無き聖人也けり」と云ふ事を知て、貴ぶ事限無し。此の達磨和尚は、南天竺の大婆羅門国の国王の第三の子也となむ、語り伝へたるとや。