今昔物語集
巻5第24話 亀不信鶴教落地破甲語 第廿四
今昔、天竺に世間旱魃して、天下に水絶て、青き草葉も無き時有けり。其の時に一の池有り。其の池に一の亀住ぬ。池の水旱失(かわきうせ)て、其の亀死ぬべし。
其の時に、一の鶴の、此の池に来て喰ふ。亀、出て、鶴に値て、相語て云く、「『汝と我れと、前世の契有て、鶴亀一双に名を得たり』と仏説き給へり。経教にも、万の物の譬には、鶴亀を以て譬へたり。而るに、天下旱魃して、此の池の水づ失せて、我が命ち絶ゆべし。汝ぢ助けよ」と。
鶴、答て云く、「汝が云ふ所、二つ所無し。我れ理を存せり。実に、汝が命、明日に過ぐべからず。極て哀れに思ふ。我れは天下を高くも下くも、飛び羳(かけ)る事、心に任せたり。春は、天下の花葉、色々にして、目出たきを見る。夏は、農業、種々に生ひ栄えて、様々なるを見る。秋は、山々の高野の紅葉の妙なるを見る。冬は霜雪の寒水、山川江河に水凍て、鏡の如くなるを見る。此の如く、四季に随て、何物か妙に目出(めでた)からざる物はあ有る。乃至、極楽界の七宝の池の自然の荘厳をも、我れ皆見る。汝は、只此の小池一が内だに知り難し。汝を見るに、実に糸惜し。然れば、汝が云はざる前に、水の辺に将行むと思ふ。但し、我れ、汝を背に負にも能はず。抱かむにも力無し。口に肑(くは)1)へむにも便り無し。只、為べき様は、一の木を汝に肑へしめて、我等、二にして木の本末を肑へて、将行かむと思ふに、汝は本より極て物痛く云ふ物也。汝ぢ、我に問ふ事有り。亦我れも誤て云ふ事有らば、互に口開きなば、落て汝が身命は損(そこ)なはれなむ。何(いかに)」と云へば、亀、答へて云く、「『将行かむ』と宣はば、我れ、口を縫て更に云ふ事有らじ。世に有る者の、身思はぬやは有る」。鶴の、「付ぬる痾(やまひ)は失せぬ物也。汝を猶信ぜじ」と。
亀の云く、「猶、更に云はじ。猶将行け」と云へば、鶴、二して亀に木を肑へしめて、鶴二して、木の本末を肑へて高く飛び行く時に、亀、池の一が内に習て、未だ見も習はぬ所の、山・川・豀・峰の色々に目出きを見て、極て感に堪へずして、「爰は何(いづ)こぞ」と云ふ。鶴も亦忘て、「此か」と云ふ程に、口開にければ、亀、落て身命を失ひてけり。
此れに依て、物痛く云ひ習ぬる物は、身命をも顧ざる也。仏の、「守口摂意身莫犯」等の文は、此れを説き給ふなるべし。亦、世の人、「不信の亀め、甲破る」と云は、此の事を云ふとぞ、語り伝へたるとや。