今昔物語集
巻5第22話 東城国皇子善生人通阿就䫂女語 第廿二
今昔、東城国に王有けり。明頸演現王と云ふ。一人の皇子有り。善生人と云ふ。其の皇子、勢長して妻無し。亦、西城国に王有り。一人の女子有り。阿就䫂女1)と云ふ。端正美麗並び無し。
東城国の善生人、阿就䫂女の美麗なる由を聞て、「妻と為む」と思ふ心有て、彼の国へ出立て行く。三尺の観音の像を造て、「行かむ間の海の難を助け給へ」と申す。
彼の両国の中間に、舎衛国有り。其の間に、七日渡る大海有り。善生人、其れに浮て渡り行く程に、忽に逆風出来て、他国へ吹き持行く。其の時に、善生人、「観音、我が身を助け給へ」と、哭き悲む程に、逆風止て、順風を得たり。
喜び乍ら行く間に、三日と云ふに、無為の津に着ぬ。其(そこ)より眷属をば皆返し遣(おこ)せつ。善生人、只独指て行くに、十五日に西城国の王の許に至ぬ。門の辺に立るに、阿就䫂女は「善生人、来べし」と、兼て知て、出でて門の外を見るに、端正なる男、一人立てり。「此れ善生人ならむ」と思て、「何方より来れる人ぞ」と問へば、「我れは東城国の王の子、善生人也」と答ふ。阿就䫂女、喜て、窃に寝所に具して入ぬ。他人を具せず。
七日と云ふに、阿就䫂女の父の王、人を召て、「寝屋に有るなるは誰人ぞ」と問給へば、「東城国の王の子、善生人也」と答ふ。其の時に、国王、善生人を呼び出て見給ふに、端正なる事並び無し。然れば、傅(かしづ)き給ふ事限無し。
而る程に、阿就䫂女は懐妊しぬ。王の后は、阿就䫂女には継母にて御ければ、此の善生人を受けず2)して、王の御する時には白飯を与へ、王の御さざる時には粮飯を与へぬ。善生人の云く、「我が許に無量の財有り。我れ、行て取て、汝に与へむ」と。阿就䫂女の云く、「我れ、既に汝が子を懐妊せり。還来らむ程、何が為むとする」と。然れども、善生人、一月を経て、東城国へ行ぬ。
阿就䫂女、其の後に、八月を経て、一度に二男を生ぜり。父の王、来れを愛し給ふ事限無し。兄をば「終尤」と云ひ、弟をば「明尤」と云ふ。善生人は、即ち還来べきに、「父の王の死なむ日に値はむ」と思て、還来ぬ程に、年来に成ぬ。
二子は三歳に成ぬ。阿就䫂女、二子に語て云く、「我れ、汝等が父を待つに、久しく見えず。亦、他の夫を求むべからず。然れば、我れ、汝等が父、善生人が許へ行かむと思ふ。譬ひ、命は終ると云ふとも、我れ、他の身とは触るべからず」と云て、窃に米五升を取て、一人をば負ひ、一人をば前に立てて、負ひ替つつ、東城国へ指て行く。七日を経るに、五升の米は尽ぬ。単衣を脱て、四升の米を買ひ取て、其れを以て猶行く。
今日、無為の津に行き着かむと為るに、路中にして、阿就䫂女、重病を受て道に臥ぬ。其の時に、二人の子、母の辺を去らずして、泣き悲む。阿就䫂女、子に教へて云く、「我が命有らむ事は、今日許也。死なむ後には、汝等、爰を去らずして、往還の人に一合の物を乞ひ食て居たれ。人有て、『汝等は何人の子ぞ』と問はば、『我が母は、西城国の王の娘、阿就䫂女也。我が父は、東城国の王の子、善生人也』と答へよ」と云ひ置て、即ち死ぬ。
二人の子、母の教への如く、其の骸の辺の薮の下に入居て、物を乞ひ食て、一月を経たり。其の時に、善生人、東城国より、数万の人を具して来るに、二人の子は、薮の下より出でて、一合の米を乞得て、返て、「我が父よや、母よや」と、叫て哭く。善生人、問て云く、「汝等は誰人の子ぞ」と。子共、答へて云く、「我が母は、西城国の王の娘、阿就䫂女也。我が父は、東城国の王の子、善生人也」と。
其の時に、善生人、子共を抱取て云く、「汝等は我が子也けり。我れは汝等が父也。母は何(いづ)こに在ますぞ」と云へば、「此の東の方に、樹の本にて死給ひにき」と云ふ。善生人、子を前に立てて、行て見れば、死骸、散り満て、青き草生たり。善生人、悶絶躃地して、骸を抱て云く、「我が無量の財を貯へ持来つる事は、君の為也。何か死給ひけむや」と云て、哭き悲て、忽に其の所に十柱の賢者を請じて、一日に廿巻の毘盧遮那経を書写供養し奉れり。
さて、善生人も其の所にして、命を捨つ。二人の子、亦同じ所にして、命を捨てけり。今、釈迦仏、其の所を法界三昧と名付て、其の所にして3)、昔の善生人は、今の善見菩薩也。昔の阿就䫂女は、今の大吉祥菩薩也。昔の兄の終尤は、今の多聞天、此れ也。弟の明尤は、今の持国天、此れ也と、説き給けり。各、仏法を護り持て、一切衆生を利益し給ふとなむ、語り伝へたるとや。