今昔物語集
巻4第26話 無着世親二菩薩伝法語 第廿六
今昔、天竺に、仏1)涅槃に入給て後、九百年の時、中天竺の阿輸遮国と云ふ所に、無着菩薩と申す聖人御けり。智恵甚深にして弘誓広大也。夜は兜率天に昇て、弥勒の御許に参て、大乗の法を習ひ奉り、昼は閻浮提に下て、衆生の為に法を弘む。
亦、其の弟に世親菩薩と申す聖人御けり。北天竺に丈夫国と云ふ国に住し給ふ。智(さと)り広くして、心に哀び有り。但し、東洲より賓頭盧尊者と申す仏の御弟子来て、此の世親菩薩に小乗の法を教ふ。然れば、年来小乗の法を好て、大乗の法を云ふ事をば知らず。
兄の無着菩薩、遥に此の心を知て、「構へて大乗に勧め入(いれん)」と思ひ給て、我が門徒の弟子を一人語ひて、彼の世親の御する所に遣て宣はく、「速に、此の所に来給ふべし」と。弟子、大師の命に随て、丈夫国に行至て、世親に無着の命を語る。
世親、無着の命に随て、行かむと為る間、夜る、無着の弟子の比丘、門の外にして、『十地経2)』と云ふ大乗の文を誦す。其の時に、世親、此の文を聞くに、甚深にして心の及ぶ所に非ず。爰に思はく、「我れ、年来拙くして、此の如きの甚深の大乗を聞かずして、小乗を好て習へり。大乗を誹謗せる罪、無量ならむ。誹謗の誤り、偏に舌より発れり。舌を以て罪の根本とす。我れ、今此の舌を切り捨む」と思ひて、利き刀を取て、自ら舌を切らむとす。
其の時に、無着菩薩、神通の力を以て、遥に此の事を見て、手を指(さし)延べて、舌を切らむと為る手を捕へて、切らしめず。其の間だ3)三由旬也。即ち来て、傍に立て、無着、世親に教へて宣はく、「汝が舌切らむと為る事、極て愚也。其れ、大乗の教法は真実の理也。諸の仏け、此れを讃(ほ)め給ふ。諸の聖衆、亦此れを尊ぶ。我れ、汝に此の法を教むと思へり。汝ぢ、速に舌を切る事無くして、此れを習ふべし。舌を切るは悔るに非ず。昔は舌を以て大乗を謗れり。今は舌を以て大乗を讃めよ」と宣て、掻消つ様に失せ給ぬ。世親、此の事を聞て、無着の教に随て、舌を切らずして歓喜す。
其の後、無着の御許に行て、思を深くして、始て大乗の教法を受け習ふ事、終に瓶の水を写すが如し。兄の無着菩薩の教化、不思議也。世親、其の後、百余部の大乗論を造りて、世に弘め給ふ。名を世親菩薩と申す此れ也。専に世に崇められ給ふ人也となむ、語り伝へたるとや。