今昔物語集
巻31第29話 蔵人式部丞貞高於殿上俄死語 第廿九
今昔、円融院の天皇の御時に、内裏焼にければ、□院になむ御ける。
而る間、殿上の夕さりの大盤に、殿上人・蔵人数(あまた)着て、物食ける間に、式部丞の蔵人藤原の貞高と云ける人も着たりけるに、其の貞高1)が俄に低(うつぶ)して、大盤に顔を宛て、喉をくつめかす様に鳴して有ければ、極て見苦かりけるを、小野の宮の実資の右の大臣、其の時に頭の中将にて御けるが、其れも大盤に着て御ければ、主殿司を呼て、「其の式部丞が居様こそ極く心得ね。其れ、寄て捜れ」と宣ければ、主殿司、寄て捜て、「早う死給ひにたり。極き態かな。此は何が為べき」と云けるを聞て、大盤に着たる有と有る殿上人・蔵人、皆立走て向たる方に走り散にけり。
頭の中将は「然りとて、此く有るべき事にも非ず」と云て、「此れを奏司の下部召して掻出よ」と仰せられければ、「何方の陣よりか将出すべき」と申ければ、頭の中将、「東の陣より出すべきぞ」と行はれけるを聞て、蔵人所の衆・滝口・出納・御蔵女官・主殿司・下部共に至まで、「東の陣より出さむを見む」とて、競ひ集たる程に、頭の中将、違へて俄に、「西の陣より将出よ」と有ければ、殿上の畳乍ら西の陣より掻出て将行ぬれば、見むとしつる若干の者共は、否見ず成ぬ。
陣の外に掻出ける程に、父の□□の三位来て、迎へ取て去にけり。「然は、賢く此れを人の見ず成ぬるぞ」と、人、云ひける。此れは、頭中将の哀びの心の御して、前には「東より出せ」と行ひて、俄に違へて「西より将出よ」と俸(おき)てられたりけるは、此れを哀びて、恥を見せじとて構たりける事也。
其の後、十日許有て、頭の中将の夢に有し式部の丞の蔵人、内にて会ぬ。寄来たるを見れば、極く泣て物多云ふ。聞けば、「死の恥2)を隠させ給たる事、世々にも忘難く候ふ。然許人の多く見むとて集て候ひしに、西より出させ給はざらましかば、多の人に見繚(みしら)はれて、極たる死の恥にてこそは候はましか」と云て、泣々く手を摺て喜ぶとなむ見えて夢覚にける。
然れば、人の為には専に情有るべき事也。此を思ふに、頭の中将、然る止事無き人なれば、然も急(き)と思ひ寄て俸てられける也となむ。此れを聞て、人、皆頭の中将を讃けるとなむ語り伝へたるとや。