今昔物語集
巻29第14話 九条堀河住女殺夫哭語 第十四
今昔、延喜の御代、天皇夜る清涼殿の夜るの大臣(おとど)1)に御ましけるに、俄に蔵人を召ければ、蔵人、一人参たりけるに、仰せ給ひける様、「此の辰巳の方に、女の音にて泣く者有り。速に尋て参れ」と。蔵人、仰せを奉(うけたま)はりて、陣の吉祥を召して、火を燃(とも)させて、内裏の内を求むるに、更に泣女無し。
夜、深更(ふけ)にければ、人の気色だに無ければ、返て其の由を奏するに、天皇、「尚、吉く尋ねよ」と仰せ給へば、其の度は八省を、清涼殿の辰巳に当る所の官々の内を尋ね聞くに、何にも音のする者無ければ、亦返り参て、八省の内には候はぬ由を奏するに、「然らば、八省の外を尚尋ねよ」と仰せ有ければ、蔵人、忽に馬司の御馬を召て、蔵人、其れに乗て、吉祥に火を燃させて前に立て、人数(あまた)具して、内裏の辰巳に当る京中を行(あるき)て、普く聞くに、京中皆静まりて、敢て人の音為ず。況や女の泣く音無し。
遂に九条堀河の辺に至ぬ。一の小家有るに、女の泣く音有り。蔵人、「若し此れを聞食けるにや」と奇異(あさまし)く思て、蔵人は其の小家の前に打立て、吉祥を以て走らしめて、「京中皆静まりて、女の泣く音無し。但し、九条堀河なる小家になむ、女の泣く一人候ふ」と奏しければ、即ち吉祥返り来て、「『其の女を慥に搦て将参べし。其の女は、心の内に謀(たばかり)の心を以て泣く也』と宣旨有」と云へば、蔵人、女を搦さするに、女の云く、「己が家は穢気也。今夜、盗人入り来て、我が夫、既に殺されにたり。其の死にたる夫、家の内に未だ有」と云て、音を挙て叫ぶ事限無し。然れども、宣旨限り有に依て、女を搦て、内に将参ぬ。
其の由を奏すれば、即ち内裏の外にして、検非違使を召て、女を給ひて、「此の女、大きなる偽有り。而るに、内の心を隠して、外に泣き悲む事有り。速に法に任て勘問して、其の過(とが)を行ふべし」と仰せ給ひければ、検非違使、女を給はりて、罷出ぬ。
夜明て、此れを勘問するに、暫は承伏せざりけれども、責めて問ければ、女、落て有のままに申けり。早う、此の女は、密夫(みそかを)と心を合せて、実の夫を殺してける也けり。態と此れを歎き悲むと、人に聞せむが為に泣けるを、女、遂に否(え)隠さずして落にければ、検非違使、此く聞て、内へ参て、此の由を奏しければ、天皇聞食して、「然ればこそ、其の女の泣つる音は、内の心に違たりと聞しかば、『強に尋よ』とは仰せられし也。其の密夫、慥に尋ね搦めよ」と仰給ければ、密夫をも搦て、女と共に獄に禁められにけり。
然れば、「心悪しと見む妻には、心を免すまじき也」とぞ、此れを聞見る人、皆云ひける。亦、天皇をぞ、「尚、只人2)にも御まさざりけり」と、人、貴び申けるとなむ語り伝へたるとや。