今昔物語集
巻27第22話 猟師母成鬼擬噉子語 第廿二
今昔、□□の国□□の郡に、鹿・猪を殺すを役と為る者、兄弟二人有けり。常に山に行て鹿を射ければ、兄弟掻列て山に行にけり。待(まち)と云ふ事をなむしける。其れは、高き木の胯に、横様に木を結て、其れに居て、鹿の来て其の下に有るを待て射る也けり。
然れば、四五段許を隔て、兄弟向様に木の上に居たり。九月の下つ暗の比なれば、極て暗くして、何にも物見えず。只、「鹿の来る音を聞かむ」と待つに、漸く夜深更(ふく)るに、鹿来ず。
而る間、兄が居たる木の上より、物の手を指下して、兄が髻を取て、上様に引上れば、兄、「奇異(あさまし)」と思て、髻取たる手を捜れば、吉く枯て曝(さら)ぼひたる人の手にて有り。「此れは鬼の我れを噉はむとて、取て引上るにこそ有めれ」と思て、「向に居たる弟に告げむ」と思て、弟を呼べば、答ふ。
兄が云く、「只今、若し、我が髻を取て上様に引上る者有らむに、何にしてむ」と。弟の云く、「然は、押量て射ぞかし」と。兄が云く、「実には、只今、我が髻を物の取て上へ引上る也」と。弟、「然らば、音に就て射む」と云へば、兄、「然らば射よ」と云ふに随て、弟、雁胯を以て射たりければ、兄が頭の上懸ると思ゆる程に、尻答ふる心地すれば、弟、「当ぬるにこそ有めれ」と云ふ時に、兄、手を以て髻の上を捜れば、腕の頸より取たる手、射切られて下たれば、兄(あ)に、此れを取て弟に云く、「取たりつる手は、既に射切られて有れば、此に取たり。去来(いざ)、今夜は返なむ」と云へば、弟、「然也」と云て、二人乍ら木より下て、掻列て家に返ぬ。夜半打過てぞ、返り着たりける。
而るに、年老て立居も安からぬ母の有けるを、一つの壺屋に置て、子二人は家を衛別(かこみわ)けて居たりけるが、此の子共、山より返来たるに、怪う母の吟(によひ)ければ、子共、「何と吟給ふぞ」と問へども、答へも為ず。其の時に、火を燃(とも)して、此の射切れたる手を二人して見るに、此の母の手に似たり。
極じく怪く思て、吉く見るに、只其の手にて有れば、子共、母の居たる所の遣戸を引開たれば、母、起上て「己等は」と云て、取懸むとすれば、子共、「此れは御手か」と云て投入れて、引き閉て去(い)にけり。
其の後、其の母、幾(いくば)く無くして死にけり。子共、寄て見れば、母の片手、手の頸より射切られて無し。然れば、「早う、母の手也けり」と云ふ事を知ぬ。此れは、母が痛う老ひ耄(ほれ)て、鬼に成て、「子を食む」とて、付て山に行たりける也けり。
然れば、人の祖の年痛う老たるは、必ず鬼に成て、此く子をも食はむと為る也けり。母をば子共葬してけり。
此の事を思ふに、極て怖しき事也となむ語り伝へたるとや。