今昔物語集
巻27第13話 近江国安義橋鬼噉人語 第十三
今昔、近江の守□□の□□と云ける人、其の国に有ける間、館に若き男の数(あまた)居て、昔し今の物語などして、碁・双六を打ち、万の遊をして、物食ひ酒飲などしける次でに、「此の国に安義の橋と云橋は、古へは人行けるを、何(いか)に云ひ伝たるにか、今は『行く人過ぎず』と云ひ出て、人行く事無し」など、一人が云ければ、おそはえたる者の口聞き鑭々(きらきら)しく、然る方に思え有けるが者の云く、彼の安義の橋の事、実とも思はずや有けむ、「己しも、其の橋は渡なむかし。極じき鬼也とも、此の御館に有る、一の鹿毛にだに乗たらば渡なむ」と。
其の時に、残の者共、皆有限り心を一にして云く、「此れ糸吉き事也。直く行くべき道を、此る事を云ひ出てより横道するに、実・虚言も知らむ。亦、此の主の心ろの程も見む」と、励ましければ、此の男、弥よ早(はや)されて、諍ひ立にけり。
此く云ひ立にたる事なれば、互に強く諍ふを、守、此の事を聞て、「糸□□く喤(ののしる)は何事を云ぞ」と問ければ、「然々の事を申す也」と、集て答ければ、守、「糸益無き事をも諍ける男かな。馬に於ては早く得(えさせ)よ」と云ければ、此の男、「物狂しき戯事(たはこと)に候ふ。傍痛く候ふ」と云ければ、異者共集て、「弊(つたなし)々し。弱々し」と励ませば、男の云く、「橋を渡らむ事の難きには非ず。御馬を欲(ほし)がる様なるが傍痛き也」と。異者共、「日高く成ぬ。遅々し」と云て、馬に移(うつし)置て、引出て取せたれば、男、胸□るる様には思ゆれども、云ひ立にたる事なれば、此の馬の尻の方に油を多く塗て、腹帯強く結て、鞭手に貫(ぬき)入れて、装束軽びやかにして、馬に乗て行くに、既に橋爪に行懸る程、胸□れて心地違ふ様に怖しけれども、立返るべき事に非ねば、行くに、日も山の葉近く成て、物心細気也。
況や、此る所なれば、人気も無く、里も遠く見遣られて、家も遥に煙1))(けぶり)幽(かすか)にて、破(わり)無く思々行くに、橋の半許に、遠くては然も見えざりつるに、人居たり。「此れや鬼ならむ」と思ふも。静心無くて見れば、薄色の衣の□よかなるに、濃き単、紅の袴長やかにて、口覆して、破無く心苦気なる眼見(まみ)にて、女居たり。打長めたる気色も哀気也。我れにも非ず、人の落し置たる気色にて、橋の高欄に押懸りて居たるが、人を見て、恥かし気なる物から、喜(うれし)と思へる様也。
男、此れを見るに、更に来し方行末も思えず、「掻乗せて行かばや」と、落懸ぬべく哀れに思へども、此に此る者の有るべき様無ければ、「此は鬼なむめり」とて、「過ぎなむ」と、偏に思ひ成して、眼を塞て走り過るを、此の女、「今や物云ひ懸」と待けるに、無音に過れば、「耶(や)、彼(あ)の主、何(な)どか糸情無くては過ぎ給ふ。奇異(あさまし)く、思懸ぬ所に、人の棄て行たる也。人郷まで将御せ」と云ふをも聞畢てず、頭身の毛太る様に思えければ、馬を掻早めて、飛ぶが如くに行くを、此の女、「穴情な無」と云ふ音、地を響かす許也。
立走て来れば、「然ればよ」と思ふに、「観音助け給へ」と念じて、奇異く駿(と)き馬を鞭を打て馳れば、鬼、走り懸て、馬の尻に手を打懸々々引つるに、油を塗たれば、引外し引外して、否(え)捕へず。
男、馳て見返て見れば、面は朱の色にて円座の如く広くして、目一つ有り。長は九尺許にて、手の指三つ有り。爪は五寸許にて刀の様也。色は緑青の色にて、目は琥珀の様也。頭の髪は蓬の如く乱れて、見るに心肝迷(まど)ひ怖しき事限無し。只、観音を念じ奉て馳する気にや、人郷に馳入ぬ。其の時に、鬼、「吉や、然りとも、遂に会はざらむやは」と云て、掻消つ様に失ぬ。
男は、喘(あへぐ)々ぐ、我れにも非で、彼(あ)れは誰そ時に館に着たれば、館の者共、騒て、「何(いかに)々に」と問ふに、只、消に消入て、物云はず。然れば、集て、抑へて心静めて、守も心もと無がりて問ければ、有つる事を落さず語ければ、守、「益無き物諍ひして、徒に死にすらむに」と云て、馬をば取せてけり。男、したり顔にて家に返にけり。妻子眷属に向て、此の事を語て恐(おぢ)けり。
其の後、家に物怪(もののけ)の有ければ、陰陽師に其の祟を問ふに、「其の日、重く慎むべし」と卜たりければ、其の日に成て、門を差籠て、堅く物忌を為るに、此の男の同腹の弟只一人有けるが、陸奥の守に付て行にけるが、其の母をも具して将下りたりけるに、此の物忌の日しも返来て、門を叩けるを、「堅き物忌也。明日を過して対面せむ。其の程は人の家をも借らむ」と云ひ出たれば、弟、「糸破(わり)無き事也。日も暮にたり。己一人こそ外にも罷らめ、若干の物共をば何がせむ。日次の悪く侍れば、今日は態と詣来つる也。彼の老人は早う失給ひにしかば、其の事も自ら申さむ」と云ひ入れたれば、年来不審(おぼつかな)く悲く思ふ祖(おや)の事を思ふに、胸□れて、「此れを聞くべき物忌にこそ有けれ」と云て、「只疾く開よ」とて、泣き悲て入れつ。
然れば、庇の方にて、先づ物食せなどして、後に出向て、泣々く語るに、弟、服黒くして、泣々く云ひ居たり。兄も泣く。妻は簾の内に居て、此の事共を聞く程に、何なる事をか云けむ、此の兄と弟と俄に取組て、からからと上に成り下に成り為るを、妻、「此は何に」と云へば、兄、弟を下に成して、「其の枕なる大刀取て遣(おこ)せよ」と云ふに、妻、「穴極じ。物に狂ふか。此る事は為るぞ」と云て取らせぬを、「尚遣せよ。然は我れ死ねとや」と云ふ程に、下なる弟、押返して、兄を下に押成して、頸をふつと咋切(くひきり)落して、踊下て行くとて、妻の方に見返り向て、「喜く」と云ふ。顔を見れば、彼の橋にて追はれたりと語りし鬼の顔にて有り。掻消つ様に失ぬ。其の時に、妻より始めて、家の内の物共、皆泣き騒ぎ迷へども甲斐無くて止にけり。
然れば、女の賢きは弊(あし)き事也けり。若干く取置ける物共・馬などと見けるは、万の物の骨頭などにてぞ有ける。由無き諍をして遂に命を失ふ、愚なる事とぞ、聞く人、皆此の男を謗ける。
其の後、様々の事共をして、鬼も失にければ、今は無しとなむ語り伝へたるとや。