今昔物語集
巻26第1話 於但馬国鷲爴取若子語 第一
今昔、但馬国七美郡川山の郷に住む者有けり。其の家に一人の若子有て、庭に腹這けるを、其の時に、鷲、空を飛て渡ける間に、此の若子の庭に腹這を見て、飛落て爴(つかみ)取て、空に昇て、遥に東を指て飛び去にけり。父母、此れを見て泣き悲むで、追ひ取らむと為るに、遥に昇にければ、力及ばずして止にけり。
其の後十余年を経て、此鷲に取られにし若子の父、用事有るに依て、丹後国加佐の郡に行にけり。其の郷に有る人の家に宿ぬ。其の家に幼き女子一人有り。年十二三許也。其の女子、大路に有る井に行て、水を汲むと為るに、此の宿たる但馬国の者も、足を洗はむが為に其の井に行ぬ。
然る間、其の郷の幼き女の童共、数(あまた)其の井に集り来て水を汲に、此の宿たる家より来たる女子の持たる罐(つるべ)を、其の郷の女の童部奪ふ。家の女子、此れを惜て、奪はれじと諍ふ程に、郷の女の童部共、同心にして、此の家の女子を罵て云く、「己は鷲の噉(く)ひ残しぞかし」と云て、詈り付つ。家の女子、打たれて、泣て家に返る。此の宿たる但馬の者も返ぬ。
家主、女子を、「何の故に泣」と問へば、女子、泣のみ泣て、其の故を答へず。其の時に但馬の宿人、見つる事なれば、有つる様を具に語て、亦云く、「抑も、此の女子をば、何の故に『鷲の噉ひ残し』とは云ぞ」と問へば、家主答て云く、「其の年の其の月の其の日の、己れ鷲1)(わし)の樔(す)に者を落したりしに、若子の泣く音の聞(きこえ)しかば、其の音を聞て、樔に寄て見侍しに、若子の有て泣しを、取り下して、其れを養ひ立て侍る。女子なれば、郷の女童部も其れを聞き伝て、此く詈立て申す也」と云を、此の但馬の宿人、此れを聞くに、「我こそ先年に子をば鷲に取られて2)」と思出て、思ひ廻すに、「其の年、其の月、其の日」と云を聞くに、彼れ但馬国にして鷲に取られし年月日につぶと当たれば、「我が子にや有らむ」と思ひ出て云く、「然て、其の子の祖(おや)と云ふ者や、若し聞えし」と問へば、家主、「其の後、更に然か聞ゆる事侍らず」と答ふれば、宿人の云く、「其の事に侍り。此く宣ふ時に思出侍る也」とて、鷲に子を取られし事を語て、「此れは我が子にこそ侍なれ」と云に、家主、糸奇異くて、女子を見合するに、此の女子、此の宿人に、形ち露違たる所無く似たりける。家主、「然れば実也けり」と信じて、哀がる事限り無し。宿人も然るべくて此に来にける事を云ひ、次(つづ)けて泣く事限り無し。
家主に3)、此く機縁深くして、行き合へる事を悲むで、惜む事無くして許してけり。「但し、我も亦、年来養ひ立つれば、実の祖に異ならず。共に祖として養ふべき也」と契て、其の後は、女子但馬にも通ひて、共に祖にてなむ有ける。
実に此れ有り難き奇異き事也かし。鷲の即ち噉ひ失ふべきに、生乍ら樔に落しけむ、希有の事也。此れも前生の宿報にこそは有けめ。父子の宿世は此くなむ有けると語り伝へたるとや。