今昔物語集
巻25第13話 源頼義朝臣罸安陪貞任等語 第十三
今昔、後冷泉院の御時に、六郡の内に安陪頼良と云ふ者有けり。其の父をば忠良となむ云ける。父祖世々を相継て、酋(えびす)の長也けり。威勢大にして、此れに随ぬ者無し。其の類伴広くして、漸く衣河の外に出づ。公事を勤めざる、代々の国司此れを制する事能はず。
而る間、永承の比、国司藤原登任と云ふ人、多くの兵を発して此れを責と云へども、頼良、諸の酋を以て防ぎ合戦ふに、国司の兵討ち返されて、死ぬる者多し。公、此の事を聞食て、速に頼良を討奉るべき宣旨を下されぬ。源頼義朝臣に仰て、此れを遣す。頼義、鎮守府の将軍に任じて、太郎義家・二郎義綱、并びに多の兵を相具して、頼良を討むが為に、既に陸奥国に下ぬ。
而る間、俄に天下大赦有て、頼良免されぬれば、頼良大きに喜て、名を頼時と改む。亦、且は守と同名なる禁忌の故也。
然て、頼時、守に随ぬれば、一任の間事無し。任畢(はて)の年、守、事を行はむが為に、鎮守府に入て、数十日有る間、頼時、首を傾て給仕する事限り無し。亦、駿馬に金等の宝を与ふ。
然て、守、館に返る道に、阿久利河の辺に野宿したるに、権守藤原説貞が子共、光貞・元貞等が宿を射る。人・馬少々射殺されぬ。此れ誰が所為と知らず。夜明て、守、此の事を聞て、光貞を召て、嫌疑の人を問ふ。光貞、答て云く、「先年に頼時が男貞任、『光貞が妹を妻にせむ』と云き。而るに、貞任が家賤しければ用ゐざりつ。貞任、深く此れを恥とす。此れを推するに、定めて貞任が所為ならむ。此の外に更に他の敵無し」と。
爰に守、「此れ光貞を射には非ず。我れを射る也」と大きに嗔て、貞任を召て罪せむと為るに、頼時、貞任に語て云く、「人の世に有る事は、皆妻子の為也。貞任、我が子也。棄む事有り難し。殺さるるを見て我れ世に有るべからず。如らず門を閉て其の言を聞かざるに、何に況や、守、任既に満たり。上らむ日近し。其の心嗔るとも、身来り責めむ事能はじ。我れ亦防ぎ戦はむに足れり。汝、歎くべからず」と云て、衣河の関を固め道を閉て、人を通さず。然れば、守、弥よ嗔て、大きに兵を発て責め来るに、国の内騒動して靡かずと云ふ事なし。頼時が婿、散位藤原経清・平永衡等も皆、舅を背て守に随ふ。
而るに、永衡、銀の冑を着て軍に有り。人有て、守に告て云く、「永衡は頼時が聟として外には随ふと云へども、内には謀の心有り。定めて密に使を通はして、御方の軍の有様を告むと為る也。亦、着たる所の冑、群と同じからず。此れ必ず合戦の験也」とて、□□守、此れを聞て、永衡并びに其の類四人を捕へて、其の頸を斬つ。
経清、此れを見て、恐ぢ畏て、親しき者に密に語て云く、「我れ亦何に死なむと為らむ」と。答て云く、「君、極く守似仕ふとも、必ず讒言有らむ。疑ひ無く殺されなむ。只早く逃て、安大夫に随へ」と。経清、此れを信じて、「去(い)なむ」と思て、謀の言を以て軍等に云く、「頼時が軍、間道より出て、国府を責て、守の北の方を取らむとす」と。此れを聞て、守の軍等発り騒ぐ。而るに経清、軍の乱れ騒ぐ隙に、私の兵八百余人を具して頼時に随ぬ。
而る間、頼義一任畢ぬれば、新司高階経重を補せらると云へども、合戦の由を聞て、辞退して下らず。此れに依て、重て頼義を補せらる。此れ頼時を討たしめむが為也。然ば、頼義、国解を以て申す。「金の為時、并びに下野守興重を以て、奥の地の酋を語て、御方の軍に寄せて、頼時を討つべし」と。即ち公、其の由の宣旨を下されたれば、銫屋(かなや)・仁土呂志・宇曽利の三郡の酋、安陪富忠を首として、多の兵を以て頼時を責る間、頼時、力を発て防ぎ戦ふ事二日、頼時、遂に流矢に当て、鳥の海の楯にして死ぬ。
其の後、守、三千百余人の軍を具して、貞任等を討むとす。貞任等四千余人の兵を具して防ぎ戦ふに、守の軍、破れて死ぬる者多し。守の男、義家、猛き事人に勝れ、射る箭空しからず、敵の射る箭□無し。夷靡き走て、敢て向ふ者無し。此れを八幡太郎と云ふ。
而る間、守の兵、或は逃げ或は死ぬ。纔に残る所、六騎也。男義家・修理少進藤原景道・大宅の光任・清原貞廉・藤原範季・同き則明等也。敵は二百余騎也。左右より囲み責て、飛矢雨の如し。守の乗馬、矢に当て薨ぬ。景道、馬を得て此れを与ふ。義家が馬、亦矢に当て死ぬ。則明、敵の馬を奪て此れを乗せつ。此くの如く為る間、殆ど脱(のがれ)難(がた)し。而るに、義家、頻に敵の兵を射殺す。亦、光任等、死に死て戦ふに、敵、漸く引て退ぬ。
其の時に、守の郎等散位佐伯の経範は相模国の人也。守、専に此れを憑めり。軍の破れける時に、経範、囲み漏されて、纔に出て、守の行ける方を知らず。散りたる者の問に答て云く、「守は敵の為に囲まれて、従兵幾ならず。此れを思ふに、定めて脱れむ事難し」と。経範が云く、「我、守に仕へて卅年、既に老に至る。守、亦若き程に在らず。今限の尅に及て、何ぞ同く死ざらむ」と。其の随兵両三騎、亦云く、「君既に『守と共に死なむ』とて、敵の陣に入ぬ。我等、豈に独り生かむ」と云て、共に敵の陣に入りて戦ふに、十余人を射殺して、其等も敵の前にして殺されぬ。
亦、藤原景季は景道が子也。年廿余にして、敵の陣に馳入て、敵等を射殺して返る事、七八度也。遂に敵の陣にして馬倒れぬ。敵等、景季が武勇を見て惜しむと云へども、守の親兵たるに依りて殺しつ。
此様に為る間、守の親き郎等共、皆力を発して戦ふと云へども、敵の為に殺さるる者、其の員有り。
亦、藤原茂頼は守の親き者也。軍破れて後数日、守の行所を知らず。「既に敵の為に討たれにけり」と思て、泣々く、「我れ彼の骸骨を求て葬せむ。但し、軍の中には僧に非ずば入難し」と云て、忽に髪を剃て僧と成て、軍の庭を指て行く道に、守に値ぬれば、且は喜び且は悲むで、守と共に返ぬ。
而る間、貞任等、弥よ威を振て、諸の郡に行て民を仕ふ。経清は多の兵を具して、衣河の関に出て、使を郡に放て、官物を徴(はた)り納めて云く、「白符を用ゐるべし。赤符をば用ゐるべからず」と。白符と云は、経清が私の徴符也。印を押さざれば白符と云ふ。赤符と云は、国司の符也。国印有るが故に赤符と云ふ也。守、此れを制止するに能はず。
然て、守、常に出羽国の山北の夷の主清原光頼、并びに弟武則に与力すべき由を勧む。光頼等、此れを思繚(おもひわづら)ふ間、守、常に珍く微妙き物共を送て、懃(ねんごろ)に語ふ時に、光頼・武則等、其の心漸く蕩(とろけ)て、力を加ふべき由を請く。
其の後、守、光頼・武則等に兵を乞ふ。然れば、武則子弟、并びに万余人の兵を発して、陸奥国に越来て、守に来る由を告ぐ。守、大きに喜て、三千余人の兵を具して行き向ふ。栗原の郡の営崗(たむろがをか)にして、守、武則に会ふ。互に思ふ所を陳ぶ。次に諸陣の押領使を定む。各武則が子、并に類也。
武則、遥に王城を拝して誓を立て云く、「我れ既に子弟類伴を発して将軍の命に随ふ。死なむ事を顧(かへり)りみず。願くは、八幡三所、我が丹誠を照し給へ。我れ更に命を惜しまず」と。若干の軍、此の言を聞て、皆、一時に励心を発す。其の時に、鳩、軍の上に翔る。守以下悉く此れを礼す。
即ち松山の道に趣て、磐井の郡、中山の大風沢(おほかざは)に宿る。次の日、其の郡の萩の馬場に至る。宗任が叔父、僧良照が小松の楯を去る事、五町余也。日次宜しからず、并に日晩たるに依て、責す事無し。武則が子共、彼の方の軍の勢を見むが為に近く至る間、歩兵等楯の外の宿屋を焼く。其の時に、城の内騒ぎ呼て、石を以て此れを打つ。爰に守、武則に云く、「合戦明日と思ふと云へども、自然ら事乱にたり。日と撰ぶべからず」と。武則、亦、「然也」と云ふ。
而に、深江の是則・大伴の員秀と云ふ者、猛き者廿余人を具して、剣を以て岸を掘り、鉾を突き、巌に登て、楯の下を斬壊て、城の内に乱れ入て、剣を合せて互に打合ぬ。城の内乱て、人皆迷(まど)ふ。宗任、八百余騎の兵を具して、城の外にして合戦ふと云へども、守、数(あまた)の猛き兵等を加へ遣て合戦ふ時に、宗任が軍破られぬ。軍、城を棄て逃げぬれば、即ち、其の楯を焼つ。
守、兵等を汰(そろ)へむが為、責討たず。亦、霖雨(ながあめ)の間、十八日を経たり。其の間に、兵等、粮尽て食物無し。守、多の兵等を所々に遣て、粮を求めしむる間、貞任等、此の由を漏り聞て、隙を伺て、多くの兵を卒して責め来る。
而るに、守并びに義家・義綱・武則等、多の軍を勧めて力を発し、命を棄て合戦ふに、貞任等、遂に負て逃ぬ。守并に武則等、軍と共に責め追ふ程に、貞任が高梨の宿、并に石坂の楯に追ひ着て合戦ふに、貞任が軍、亦破れて、其の楯を棄て、貞任衣河の関に逃入る。
即ち衣河を責む。此の関、本より極て嶮(けはし)きが上に、弥よ樹道を塞げり。守、三人の押領使を分て、此れを責め戦はしむ。武則、馬より下て、岸の辺を廻見て、久清と云ふ兵を召して云く、「両岸に曲たる木有り。其の枝の河の面に覆へり。汝ぢ身軽くして、飛び超る事を好む。彼の岸に伝ひ渡て、密に敵の方に超え入て、其の楯の本に火を付よ。敵、其の火を驚かむとす。其の時に我れ必ず関を破らむ」と。久清、武則が命に随て、猿の如く彼の岸の曲れる木に着て、縄を付て、卅余人の兵、此の縄に着て超へ渡ぬ。密に藤原業道が楯に至りて、火を放て焼く。貞任等、此れを見て驚き騒て、戦はずして引て逃て、鳥の海の楯1)に着ぬ。
守并びに武則等、此の楯を落して後、鳥の海の楯を責む。軍未だ来たらざる前に、宗任・経清等、城を棄て逃て、厨河の楯に還ぬ。守、鳥の海の楯に入て、暫く兵を休る間、一の屋に多の酒有り。歩兵、此れを見て喜て、急て飲なむとす。守、制して云く、「此れ必ず毒酒ならむ。飲むべからず」と。而るに、雑人の中に一両人、密に此れを飲むに害無し。然れば、軍挙て此れを飲つ。
然て、武則・正任が黒沢尻の楯、亦、鶴脛・比与鳥の楯等、同じく落して、次に厨河・嫗戸、二の楯に至り、囲て陣を張て終夜護る。明る卯の時より、終夜合戦ふ。
爰に守、馬より下て、遥に王城を礼して、自ら火を取て誓て、「此れ神火也」と云て、此れを投ぐ。其の時に鳩出来て、陣の上に翔る。守、此れを見て、泣々く此れを礼す。其の時に、忽に暴(あら)き風起て、城の内の屋共、一時に焼ぬ。男女数千人、音を同くして泣き叫ぶ。敵の軍、或は身を淵に投げ、或は敵に向て伏す。守の軍、水を渡て責め囲て戦ふ。敵の軍は身を棄て剣を振て、囲を破て出むとす。武則、兵等に告て云く、「道を開て敵等を出すべし」と。然れば、兵等、囲を開く。敵等、戦はずして逃ぐ。守の軍、此れを追て、悉く殺しつ。亦、経清を捕へつ。
守、経清を召て、仰せて云く、「汝ぢ我が相伝の従(とも)也。而るに、年来我れを蔑にし、朝の威を軽めり。其の罪最も重し。今日白符を用る事得むや否や」と。経清、首を伏て云ふ事無し。守、鈍刀を以て漸く経清が頸を斬つ。
貞任は剣を抜て軍を斬る。軍は鉾を以て貞任を刺しつ。然りて、大なる楯に載て、六人して掻て、守の前に置く。其の長け六尺余、腰の囲七尺四寸、形ち器量(いか)めしくして色白し。年四十四也。守、貞任を見て、喜びて、其の頸を斬つ。亦、弟重任が頸を斬つ。但し、宗任は深き泥に落入て逃げ脱ぬ。
貞任が子の童は年十三、名を千世童子と云ふ。形ち端正也。楯の外に出て、吉く戦ふ。守、此れを哀むで、「宥む」と思ふ。武則、此れを制して、其の頸を斬らしめつ。楯の破る時、貞任が妻、三歳の子を抱て夫に語て云く、「君既に殺されなむとす。我独り生くべからず。君が見る時に死なむ」と云て、子を抱乍ら深き淵に身を投て死ぬ。
其の後、幾(いくばく)を経ずして、貞任が伯父、安陪為元・貞任が弟家任、降して出来る。亦、数日を経て、宗任等九人、降して出来る。其の後、国解を奉て、頸を斬れる者并びに降に帰せる者申し上ぐ。
次の年、貞任・経清・重任が頸、三つ奉る。京に入る日、京中の上中下の人、此れを見喤(ののし)る事限り無し。首を持上げる間、使、近江国甲賀郡にして、筥を開て首を出して、其の髻を洗はしむ。筥を持る夫は貞任が従降人也。櫛無き由を云ふ。使の云く。「汝等が私の櫛を以て梳るべし」と。夫、然れば私の櫛を以て、泣々く梳る。首を持入る日、公、検非違使等を河原に遣して、此れを請取る。
其の後、除目を行はるる次に功を賞せられ、頼義朝臣は正四位下に叙して、出羽守に任ず。二郎義綱は左衛門尉に任ず。武則は従五位下に叙して、鎮守府の将軍に任ず。首を奉る使藤原秀俊は左馬允に任ず。物部長頼は陸奥大目に任ず。
此の如く賞の新たなる事を見て、世の人、皆讃め喜びけりとなむ語り伝へたるとや。