今昔物語集
巻24第31話 延喜御屏風伊勢御息所読和歌語 第卅一
今昔、延喜の天皇1)、御子の宮の御着袴(はかまぎ)の料に、御屏風を為させ給て、其の色紙形に書くべき故に、歌読共に「各、和歌(うた)読みて奉れ」と仰せ給ひければ、皆読て奉りけるを、小野道風と云ふ手書を以て書かしめ給ければ、春の帖に、桜の花栄(さき)たる所に、女車の山路行たる絵を書きたる所に当て色紙形有り、其れを思し食し落して、歌読共にも給はざりければ、道風、書き持(もて)行くに、其の歌無ければ、天皇、此れを御覧じて、「此は何がせむと為る。今日に成ては俄に誰が此れを読むべき。可咲しき所の歌しも無からむこそ、口惜しけれ」と仰せられて、暫く思食し廻して、藤原伊衡と云ふ殿上人の、少将にて有けるを召ぬ。即ち参ぬ。
仰せられて云く、「只今、伊勢御息所の許に行て、『此る事なむ有る。歌読て』」とて遣はす。此の御使に伊衡を遣す事は、此の人、形ち・有様より始て、人柄なむ有ける。然れば、「御息所『恥かし』と思ぬべき者は此なむ有る」と思食して、撰て遣すなるべし。
然て、此の御息所は極て物の上手にて有ける。大和守忠房と云ふ人の娘也。亭子院の天皇2)の御時に参て有ければ、天皇極く時めき思食して、御息所にも成られたる也。形ち・心ばせより始め、故有て可咲く微妙かりけり。和歌を読む事は、其の時の躬恒3)・貫之4)にも劣らざりけり。其れに、亭子院の、法師に成らせ給て、大内山5)と云ふ所に深く入て行はせ給ければ、此の御息所も世の中冷(すさまじく)思へて、家につくづくと長め居たる也けり。
内渡の事共、事に降れて思ひ出でられて、物哀に思ひ居たる間に、門の方に前追ふ音す。襴(とのゐ)姿なる人、入り来る。「誰にか有らむ」と思て見れば、伊衡の少将の来れる也けり。思ひ懸けずして、「何事にか有らむ」と思て。人を以て問はしむ。
伊衡は、仰を承(うけたまはり)て、御息所の家に行て見れば、五条渡なる所也。庭の木立ち極て木暗くて、前栽極く可咲く殖たり。庭は苔・砂青み渡たり。三月許の事なれば、前の桜おもしろ6)く栄へ、寝殿の南面に帽額(もかう)の簾所々破て、神さびたり。伊衡、中門の脇の廊に立て、人を以て、「内の御使にて、伊衡と申す人なむ参たる」と云せたれば、若き侍の男出来て、「此方に入らせ給へ」と云へば、寝殿の南面に歩み寄て居たる内に、故びたる女房の音にて、「内に入らせ給へ」と云ふ。
簾を掻上て見れば、母屋の簾は下したり。朽木形の几帳の清気なる、三間許りに副て立たり。西東三間許去(のき)て、四尺の屏風の中馴たる立たり。母屋の簾に副へて、高麗端(べり)の畳を敷て、其の上に唐錦の菌敷きたり。板敷の瑩(みが)かれたる事、鏡の如し。影残り無く移りて見ゆ。屋の体旧くして神さびたり。寄て菌7)の喬(わき)の方に居たれば、空薫(そらだき)の香、氷(ひ)ややかに馥(かうば)しく、ほのぼの匂ひ出づ。清気なる女房の袖口共透たり。額つき吉き二三人許、簾より透て見ゆ。簾の気色、極く故有りて可咲し。
「恥かし」と思へども、簾の許に近く寄て、「内の仰せ事に候ふ。『夕さり若宮の御着袴に屏風して奉るに、色紙形に書かむ料に、和歌読共に歌読せて書せつるを、然々の所を思落して、歌読にも給はざりければ、其の所の色紙形には書くべき歌も無し。然れば、其の歌読むべき躬恒・貫之召さすれば、各物に行にけり。今日には成にたり。亦、異人には云ふべき様無ければ、此の歌只今読みて遣はされなむや』となむ仰せ事候ひつる」と云へば、御息所、極く驚て、「此は仰せらるべき事にか有らむ。兼て仰せ有らむにてそら、躬恒・貫之が読たらむ様には何でか有らむ。増して、俄に糸破(わり)無き仰せ事也。思ひ懸くべき事も非りけり」と云ふ音髴(ほのか)に聞ゆ。気はひ気高く、愛敬付きて、故有り。伊衡、此れを聞に、「世には此る人も有けり」と聞く。
暫許(とばかり)有れば、厳(いつくし)き童の、汗衫着たる、銚子を取て、簾の内より居ざり出づ。「怪」と思ふ程に、早う居たる簾の下より、絵可咲書たる扇に盞を居へて差出たる也けり。童の可咲気にて、簾より透て居ざり出るを見る程に、遅く見付たる也けり。亦、女房よせ来て、蛮絵に蒔たる硯の筥の蓋に、清気なる薄様を敷て、交菓子を入て差出たり。酒を勧むれば、盞を取て有るに、童、銚子を持て酒を入る。「多し」と云へども、抑へて、只入に入る。「我れ酒飲むと知たる也けり」と思ふに可咲し。然て飲つ。盞を置かむと為るに、置かせずして、度々誣(し)ふ。四・五度許飲て、辛くして盞を置つ。亦、打次(うちつづ)き簾の下より盞を差出つ。辞(すま)へども、「情無かは」とて、度々飲む程に酔ぬ。女房達、少将を見れば、赤みたる顔付・眼見(まみ)、桜の花に匂合て、微妙く見ゆる事限り無し。
程も久く成ぬれば、紫の薄様に歌を書て、結びて、同じ色の薄様に裹て、女の装束を具して、押出たり。赤色の重の唐衣、地摺の裳、濃き袴也。物の色、極て清らに微妙し。「思ひ懸ぬ事かな」と云て、取て立ぬ。女房共、少将の出るを見送て、目出入る事限り無し。門を出て隠るまで見るに、後手の歩たる姿、窕窈(たをやか)に微妙し。車の音、前(さき)など聞へず也ぬれば、極く哀れに思へて、居たりつる茵に移り、香嬪(かかへ)なば、取去け疎し。
此て内には「参らぬや、参らぬや」と人を以て見せさせ給ふ。殿上口の方に、前追ふ音して参れば、「此に参たり」と申せば、「疾疾(とくとく)」と仰せらる。道風は筆を湿(ぬら)し儲て御前に候ふ。亦然るべき上達部・殿上人、数(あまた)御前に候ふ。
而る間、伊衡少将、物を被(かづ)きて、殿上の戸の許に被物をば落し置て、文を御前に持来て奉る。天皇、此れを披て御覧ずるに、先づ書様ま微妙じくて、道風が書たるに露劣らず。
御息所、此く書たり。
ちりちらずきかまほしきをふるさとのはなみてかへるひともあはなむ
天皇、此れを御覧じて、目出たがらせ給ふ。御前に候ふ人々に、「此れ見よ」とて給はせたれば、可咲き音共を以て詠ずるに、いとど歌見て微妙く聞ゆる事限り無し。度々詠じて後になむ、道風書ける。然れば、御息所、尚微妙き歌読也となむ語り伝へたるとや。