今昔物語集
巻23第22話 相撲人海恒世会蛇試力語 第(廿二)
今昔、丹後の国に海の恒世と云ふ右の相撲人有けり。其の恒世が住ける家の傍に旧河有けるが、深き淵にて有ける所に、夏比、恒世其の旧河の汀近く、木景の有りけるに、帷(かたびら)許を着て、中結て、足駄を履きて、杈杖(またぶりづゑ)と云ふ物を突て、小童一人許を共に具して、此彼冷(とかくすずみ)に行ける次でに、其の淵の傍の木の下に行けり。
淵青く恐しげに底も見へず。葦た薦など生たりけるを見て、立てりけるに、淵の彼方の岸の、三丈許は去(のき)たらむと見ゆるに、水のみなぎりて、此方様に来ければ、恒世、「何の為るにか有らむ」と思て見る程に、此方の汀近く成て、大なる蛇の水より頭を指出たりければ、恒世、此れを見て「此の蛇の頭の程を見るに、大きならむかし。此方様に上らむずるにや有らむ」と見立りける程に、蛇の貌を指出て、暫く恒世を守ければ、恒世、「我を此の蛇は何にか思ふにか」と思て、汀四五尺許去て、動かで立て見ければ、蛇、暫許(とばかり)守り守りて、頭を水に引入てけり。
其の後、彼方の岸様に、水みなぎると見る程に、亦即ち此方様に水浪立ちて来る。其の後、蛇の尾を水より指上て、恒世が立てる方様に指寄せける。「此の蛇、思ふ様の有にこそ有けれ」と思ひて、任せて見立てるに、蛇の尾を指し遣(おこせ)て、恒世が足を二返許纏てけり。「何にせむと為るにか有らむ」と思ひ立てる程纏ひ得て、きしきしと引ければ、「早う、我を河に引入れむと為るにこそ有けれ」と思ふ。其の時に、踏強りて立てるに、「極く強よく引」と思へるに、履きたる足駄の歯、踏折つ。「引倒されぬべし」と思へけるを、構て踏直りて立てるに、強く引と云へば愚也りや、引取られぬべく思へけるを、力を発して足を強く踏立てければ、固き土に五六寸許足を踏入れて立てるに、「吉く強く引く也けり」と思ふ程に、縄などの切るる様に、ふつと切るるままに、河の中に血浮び出る様に見へければ、「早う切れぬる也」と思ひて、足を引ければ、蛇の切引されて陸に上にけり。其の時に、足に纏ひたる尾を引きほどきて、足を水に洗ひけれども、其の蛇の巻たりつる跡、失せざりけり。
而る間、従者共、数(あまた)来けり。「酒を以て其の跡を洗ふ」と人云ければ、忽に酒取りに遣て、洗ひなどして後、従者共を以て、其の蛇の尾の方を引上て見ければ、大き也と云へば愚也、切口の大さ、一尺許は有らむとぞ見へける。頭の方の切口見せに、河の彼方に遣たりければ、岸に大きなる木の根の有けるに、蛇の頭を数返纏て、尾を指遣せて、先ず足を纏て引きける也けり。其れに、蛇の力の恒世に劣りて、中より切れにける也。我が身の切るるも知らず引けむ蛇の心は奇異き事也かし。
其の後、「蛇の力の程、人何(いく)ら許の力にか有けると試む」と思て、大きなる縄を以て、蛇の巻たりける様に、恒世が足に付て、人十人許を付て引せけれども、「尚彼れ許は無し」とて、三人寄せ、五人寄せなど付つ引せたれども、「尚足らず」「足らず」と云て、六十人許り懸りて引ける時になむ、「此許(かばかり)ぞ思へし」と恒世云けり。
此れを思ふに、恒世が力は、百人許が力を持たりけるとなむ思ゆる。此れ希有の事也。昔は此る力有る相撲人も有けりとなむ語り伝へたるとや。