今昔物語集
巻22第7話 高藤内大臣語 第七
今昔、閑院の右の大臣と申す人御ましけり。名をば冬嗣1)となむ申ける。世の思え糸止事無して、身の才極て賢く御けれども、御年若くして失給ひにけり。
其の御子数(あまた)御けり。兄をば長良の中納言2)と申けり。次をば良房の太政大臣3)と申けり。次をば良相の左大臣4)と申けり。次をば内舎人良門5)と申けり。昔は此く止事無き人も初官には内舎人にぞ成ける。
而るに、其の良門の内舎人の御子に、高藤6)と申す人御けり。幼く御ける時より鷹をなむ好み給ける。父の内舎人も鷹を好み給ひければ、此の君も伝へて好み給なるべし。
而る間、年十五六歳許の程に、九月の比、此の君鷹狩に出給ひにけり。南山階と云ふ所の、諸の山の程を仕ひ行(ある)き給けるに、申時許に、俄に掻暗がりて、しぐれ7)降り、大きに風吹き、雷電霹靂しければ、共の者共も、各(おのお)の馳散て、「行き分れて、雨宿をせむ」と、皆、向たる方に行ぬ。
主の君は西の山辺に、「人の家の有ける」と見付て、馬を走せて行く。共の舎人の男、一人許なむ有ける。
其の家に行着て見給へば、檜垣指廻したる家に、小さき唐ら門屋の有る内に、馬に乗乍ら馳入ぬ。板葺の寝殿の妻に、三間許の小廊の有るに馬を打入て下りぬ。馬は廊の妻の亙なる所に引入れて馬飼の男居り、主は板敷に尻を打懸て御す。其の程、風吹き雨降て雷電霹靂して恐しきまで荒(ある)れども、返すべき様無ければ、此くて御す。
而る間、日も漸く暮ぬ。「何にせむ」と、心細く恐しく思えて居給へるに、家の後の方より、青鈍の狩衣袴着たる男の、年卌余許なる出来て云く、「此れは何人の此ては御すぞ」と。君、答て宣く、「鷹を仕つる間に、此(かか)る雨風に合て、行くべき方も思はで、只馬の向たる方に任せて走せつる程に、家の見(みえ)つれば、喜び乍ら此に来たる也。何(いかに)せむずる」と。男の云はく、「雨の降らむ程は、此にこそ御まさめ」とて、馬飼男の居たる所に寄て、「此れは誰が御すぞ」と問へば、「然々の人の御ます也」と、舎人の男答ふれば、家主の男此れを聞驚て、家の内に入て、家を□□ひ火灯(とも)しなどして、暫許り有て、出来て云く、「賤の様に候ふ所なれども、此ては何でか御さむ。雨の止む程は、内にこそ御さめ。亦、御衣も痛く濡(ぬれ)させ御ましたり。炮干(あぶりほし)などしてこそ奉らめ。御馬も草食せ候はむ。彼の後の方に引入れ候はむ」と申せば、賤の下衆(げす)の家なれども、故々しくして可咲(をか)し。
見れば檜籧篨(ひあじろ)を以て天井(くみれ)にしたり。廻には籧篨屏風を立たり。浄気なる高麗端の畳、三四帖許敷たり。苦しければ、装束解て、寄臥給たるに、家主の男来て、「御狩衣指貫など、炮干さむ」と云うて、取て入ぬ。
暫許有て、臥乍ら見給へば、庇の方より遣戸を開けて、年十三四なる若き女の、薄色の衣一重、濃き袴着たるが、扇を指隠て片手に高坏を取て、出来たり。恥じらひて、遠く喬(そば)8)みて居たれば、「君、此寄(こちよれ)」と宣ふ。和(やは)ら居ざり寄たるを見れば、頭つき細やかに、額つき髪の懸り、此様の者の子と見えず。極めて美麗に見ゆ。高坏・折敷を居(すゑ)て、坏に箸を置て持来たる也。
前に置きて返り入ぬ。其の後手、髪房やかに生ひ、末膕(よぼろ)許は過たりと見ゆ。亦即ち、折敷に物共を居て、持来たり。幼き者なれば、賢くも居ずして、置きて、居ざり去(のき)て居たり。見れば、やきごめ9)をして、小大根・鮑・干鳥・□□などを持参たる也けり。終日(ひねもす)鷹仕ひ行き給て、極(こう)じ給ひにけるに、此く進(たてまつり)たれば、「下衆の許也とても何かはせむ」とて、皆食(たべ)りぬ。酒など進たれば、其れも飲給ひて、夜深更(ふけ)ぬれば臥給ぬ。
此の有つる者、心に付て思え給ひければ、「独り寝たるが恐しきに、有つる人、此に来て有れ」と宣ひければ、参たり。「此寄れ」とて、引寄て、抱て臥給ひぬ。近く寄たる気はひ、外に見よりは娥(みめ)よく労たし。哀れに思え給ひければ、若き心の内にも、実に行く末までの事を繰返し契て、長月の夜も極て長きに露寝ずして、哀れに契置てけり。
有様も極く気高き様なれば、奇異(あさましく)思えて、契明して、「夜も曙(あけ)ぬれば、起て出」とて、帯(はき)給たりける太刀を、「此れを形見に置たれ。祖心(おやごころ)浅くして男など合すとも、努々人に見ゆる事なせそ」とて、出も遣らず云ひ置て出給ぬ。馬に乗て四五町許御ましける程にぞ、共の者共は此彼(ここかしこ)より主を尋て出来合たりける。奇異がり、喜び合へりけり。
其よりぞ、具して京の家には返給たりける。父の内舎人も、此の君、昨日鷹仕ひに出給ひしが、其のままに見え給はねば、「何なる事にか有らむ」と、終夜(よもすがら)思ひ明して、今朝は明るや遅きと人出し立てて、尋に遣し給ふ程に、此く返給ひたれば、返々す喜びて、「幼からむ程は、此様の行きは制すべからず也。我れが心に任せて鷹仕ひ行きしを、故父の殿の制し給はざりしかば、此も任せて遊ばするに、此る事の有れば、極て後目(うしろめ)た無し。今よりは、幼らむ程は此る行き速に止むべし」と有ければ、鷹仕ふ事も止ぬ。
共に有し者共も、彼の家を見ざりしかば、其れを知る人無し。只、馬飼の男一人、其の所を知たりしが、其の後、暇申して田舎へ行ければ、彼の家を知たる人無きに依て、君、彼の有し女を、恋しく割(わり)無く思給ひけれども、人を遣はすべき様も無し。然れば月日は過れども、恋き事、弥増(まさり)て心に懸て思ひ侘給ひける程に、四五年にも成にけり。
而る間に、父の内舎人年若くして、墓無く失給ひにけり。然れば、此の君は、伯父の殿原の御許に通ひつつなむ過し給けるに、此の君は、形も美麗に、心ばへも微妙くありければ、伯父良房の大臣、「此れは止事無かるべき者也」と見給て、万ず哀れに当り給ひけるに、此の君の父も御さで、心細く思え給るままに、彼の見し女の事のみ心に懸りて、恋しく思え給ひければ、妻をも儲け給はざりける程に、六年許を経ぬ。
而る間、彼の共に有し馬飼の男、田舎より上て参たりと聞きて、馬飼を召出て、疥しめ(いたはらしめ)給ふ様にて、近く呼て、宣はく、「一とせ、鷹狩の次に雨宿りしたりし家は、汝ぢ覚ゆや否や」と。男の申さく、「思え候ふ」と。君、此れを聞きて、「喜(うれ)し」と思ひ給へば、「今日其に行かむと思ふ。鷹仕ふ様にてなむ行くべき。其の心を得て有るべし」と宣て、共に帯刀にて有ける者、睦く仕ひ給ひけるを具して、阿弥陀の峰越に御ぬ。
彼の所に、日の入る程になむ御し着たりける。二月の中の十日の程の事なれば、前なる梅の花、所々散て、鶯10)、木末に哀れに鳴く。遣水に散落て流るるを見るに、極く哀れ也。
馬に乗乍ら、前に有し様に打入て下ぬ。家主の男を呼び出せば、思ひ懸ず此く御たるが喜さに、手迷(てまど)ひして出来たり。「有し人は有か」と問給へば、「候ふ」と答ふ。喜び乍ら有し方に入て見れば、几帳の喬に、鉉(はた)隠れて居たり。寄て見れば、見し時よりも長(ね)び増りて、非ぬ者に微妙く見ゆ。「世には此る者あり」とまで見るに、其の傍に五六歳許なる女子の、艶(えなら)ぬ厳気(いつくしげ)なる居たり。「此れは誰ぞ」と問給へば、女低11)(うつぶし)て泣くにや有らむと見ゆ。
墓々しく答ふる事も無ければ、心も得で、父の男を呼べば、出来て、前に平がり居たり。君の宣はく、「此の有児は誰ぞ」と。父答て云く、「一とせ御ましたりしに、其の後人の当たりに罷寄る事も候はず。本よりも幼く候し者なれば、人の当りに寄(よす)る事も候はざりしに、御まして候ひし程より、懐妊し候て産て候ふになむ」と。此れを聞くに哀れに悲くて、枕上の方を見れば、置し太刀有り。然は、「此く深き契も有けり」と思ふに、弥よ哀れに悲き事限無し。此の女子を見れば、我が形に似たる事、露許も違はず。此て其の夜は其に留ぬ。
明る朝に返り給ふとても、「今迎へに来べし」と云ひ置きて出ぬ。家主の男、「何者にか有らむ」と思て、尋ね問給ひければ、「其の郡の大領宮道の弥益」となむ云ひける。「此る賤の者の娘也と云とも、前世の契、深くこそは有らめ」と思給へて、亦の日、筵張の車に下簾懸て、侍二人許具して御ぬ。車寄せて乗せ給ふ。彼の姫君も乗給ひぬ。無下に人の無からむが悪ければ、母を呼び出て乗せたれば、年四十余許なる女の、乾(かはら)かなる形して、此様の者の妻と見えたり。練色の衣の強(こはら)かなるを着て、髪をばきこめて居ざり乗ぬ。殿に将御して□□ひ下し給ひて、其の後は亦他の人の方に目も見遣ずして棲給ひける程に、男子二人打次(うちつづ)き産てけり。
然て此の高藤の君、止事無く御ける人にて成上り給て大納言まで成給ひぬ。彼の姫君をば、宇多院12)の位に御しける時に、女御に奉り給ひつ。其の後、幾(いくばく)の程を経ずして醍醐天皇をば産奉り給へる也。
男子二人は兄は大納言の右の大将にて名をば定国13)とぞ申ける。泉の大将と云ふ此れ也。弟は右大臣定方14)と申す。三条の右大臣と云ふ此れ也。祖父の大領は四位に叙して、修理の大夫になむ成されたりける。醍醐の天皇、位に即せ給ひにければ、祖父の高藤の大納言は内大臣に成給ひにけり。
其の後、弥益が家をば寺に成して、今の勧修寺此れ也。向の東の山辺に其の妻堂を起たり。其の名をば大宅寺と云ふ。此の弥益が家の当をば哀れに睦じく思食けるにや有けむ、醍醐の天皇の陵、其の家の当に近し。
此れを思ふに、墓無かりし鷹狩の雨宿に依て、此く微妙き事も有るは、此れ皆前生の契なりとなむ語り伝へたるとや。