今昔物語集
巻20第7話 染殿后為天狗被嬈乱語 第七
今昔、染殿后1)と申すは、文徳天皇の御母2)也。良房太政大臣3)と申ける関白の御娘也。形ち美麗なる事、殊に微妙かりけり。
而るに、此の后、常に物の気に煩ひ給ければ、様々の御祈共有けり。其の中に、世の験し有る僧をば召し集て、験者修法有ども、露の験し無し。
而る間、大和葛木4)の山の頂に、金剛山と云ふ所有り。其の山に、一人の貴き聖人住けり。年来、此の所に行て、鉢を飛して食を継ぎ、瓶を遣て水を汲む。此の如く行ひ居たる程に、験並無し。
然れば、其の聞え高く成にければ、天皇并に父の大臣、此の由を聞食して、「彼れを召して、此の御病5)を祈らしめむ」と思食して、召すべき由、仰下されぬ。使、聖人の許に行き、此の由を仰するに、聖人、度度辞び申すと云へども、宣旨背き難きに依て、遂に参ぬ。
御前に召て、加持を参するに、其の験し新たにして、后の一人の侍女、忽に狂て、哭き嘲る。侍女、神託(つき)て、走り叫ぶ。聖人、弥よ此れを加持するに、女、縛られて、打ち責めらるる間、女の懐の中より、一の老狐出て、転(まろび)て倒れ臥て、走り行事能からす6)。
其の時に、聖、人を以て狐を繋がしめて、此れを教ふ。父の大臣、此れを見て、喜給ふ事限無し。后の病、一両日の間に止給ひぬ。
大臣、此れを喜給て、聖人暫く候ふべき由を仰せ給へば、仰に随て、暫く候ふ間、夏の事にて、后、御単衣許を着給て御けるに、風、御几帳の帳を吹き返したる迫(はざま)より、聖人、髴(ほのか)に后を見奉けり。見も習はぬ心地に、此の端正美麗の姿を見て、聖人、忽に心迷ひ肝砕て、深く后に愛欲の心を発しつ。然れども、為べき方無き事なれば、思ひ煩て有るに、胸に火を焼くが如にして、片時も思ひ過ぐべくも思えざりければ、遂に、心澆(あわ)て狂て、人間(ひとま)を量て、御帳の内に入て、后の臥(ふせ)され給へる御腰に抱付ぬ。后、驚き迷て、汗水に成て、恐ぢ給ふと云へども、后の力に辞び得難し。
然れば、聖人、力を尽して掕じ奉るに、女房達、此れを見て、騒ぎ喤(ののし)る時に、侍医当麻の鴨継と云ふ者有り。宣旨を奉(うけたまはり)て、后の御病を療せむが為に、宮の内に候けるが、殿上の方に俄に騒ぎ喤る音しければ、鴨継、驚て走り入たるに、御帳の内より、此の聖人出たり。鴨継、聖人を捕へて、天皇に此の由を奏す。
天皇、大きに怒給て、聖人を搦て、獄に禁められぬ。聖人、獄に禁められたりと云へども、更に云ふ事無して、天に仰て、泣々く誓て云く、「我れ、忽に死て、鬼と成て、此の后の世に在まさむ時に、本意の如く、后に睦びむ7)」と。獄の司の者、此れを聞て、父の大臣に此の事を申す。大臣、此れを聞驚給て、天皇に奏して、聖人を免して、本の山に返し給ひつ。
然れば、聖人、本の山に返て、此の思ひに堪へずして、后に馴れ近付き奉るべき事を強に願て、憑む所の三宝に祈請すと云へども、現世に其の事や難かりけむ、「本の願の如く、鬼と成らむ」と思ひ入りて、物も食はざりければ、十余日を経て、餓へ死にけり。
其の後、忽に鬼と成ぬ。其の形、身裸にして、頭は禿(かぶろ)也。長け八尺許にして、肌の黒き事漆を塗れるが如し。眼は鋺(かなまり)を入たるが如くして、口広く開て、釼の如くなる歯生たり。上下に牙を食ひ出したり。赤き裕衣(たふさぎ)を掻て、槌を腰に差したり。
此の鬼、俄に后の御ます御几帳の喬(そば)に立たり。人、現はに此れを見て、皆魂を失ひ、心を迷はして、倒れ迷て逃ぬ。女房などは、此を見て、或は絶入り、或は衣を被(かつぎ)て臥ぬ。疎き人は、参り入らぬ所なれば、見えず。
而る間、此の鬼、后を怳(ほ)らし8)、狂はし奉りければ、后、糸吉く取り疏(つくろ)ひ給て、打ち咲て、扇を差隠して、御帳の内に入り給て、鬼と二人臥させ給ひにけり。女房などの聞ければ、只日来恋しく侘かりつる事共をぞ、鬼申ける。后も咲嘲らせ給ひければ、女房など、皆逃去にけり。
良久く有て、日暮る程に、鬼御帳より出て去にければ、「后、何(いか)に成せ給ひぬらむ」と思て、女房達、怱(いそぎ)参たれど、例に違ふ事無して、「然る事や有つらむ」と思食たる気色も無くてぞ居させ給たりける。少し、御眼見(まみ)ぞ、怖し気なる気付せ給ひにける。此の由を内に奏してければ、天皇、聞食て、奇異(あさまし)く怖しきよりも、「何に成せ給ひなむずらむ」と歎かせ給ふ事限無し。
其の後、此の鬼、日毎に同じ様にて参るに、后、亦心肝も失せ給はずして、移し心も無く、只此の鬼を媚(むつまじ)き者に思食たりけり。然ば、宮の内の人、皆此れを見て、哀れに悲く歎き思ふ事限無し。
而る間、此の鬼、人に託(つき)て云く、「我れ、必ず彼の鴨継が怨を報ゆべし」と。鴨継、此れを聞て、心に恐ぢ怖るる間、其の後、幾く程を経ずして、鴨継、俄に死にけり。亦、鴨継が男三四人有ける、皆狂病有て死けり。然れば、天皇并に父の大臣、此れを見て、極て恐ぢ怖れ給て、諸の止事無き僧共を以て、此の鬼を降伏せむ事を懃ろに祈せ給けるに、様々の御祈共有ける験には、此の鬼、三月許参らざりければ、后の御心も少し直りて、本の如く成給ひければ、天皇、聞食て、喜ばせ給ける程に、天皇、「今一度見奉らむ」とて、后の宮に行幸有けり。
「例より殊に哀なる御行9)也」とて、百官欠けず皆仕たりけり。天皇、既に宮に入られ給て見奉らせ給て、泣々く哀なる事共申させ給へば、后も哀れに思食たり。形ち、本の如くにて御す。
而る程に、例の鬼、俄に角(すみ)より踊出て、御帳の内に入にけり。天皇、此れを、「奇異」と御覧ずる程に、后、例の有様にて、御帳の内に怱ぎ入り給ぬ。暫許有て、鬼、南面に踊出ぬ。大臣・公卿より始て百官、皆現に此の鬼を見て、恐れ迷て、「奇異」と思ふ程に、后、又取り次(つづ)きて出させ給ふて、諸の人の見る前に、鬼と臥させ給て、艶(えもいは)ず見苦き事をぞ、憚る所も無く為(せさ)せ給て、鬼起にければ、后も起て入らせ給ふ。天皇、為べき方無く思食し歎て、返らせ給にけり。
然れば、止事無なからむ女人は、此の事を聞て、専に然るべし有らむ法師をば、近付くべからず。此の事、極て便無く、憚り有る事也と云へども、末の世の人に見しめて、法師に近付かむ事を強に誡めむが為に、此くなむ語り伝へたるとや。