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text:k_konjaku:k_konjaku20-39

今昔物語集

巻20第39話 清滝河奥聖人成慢悔語 第卅九

今昔、清滝河の奥に庵を造て年来行ふ僧有けり。「水瓶に水を入れむ」と思ふ時は、水瓶を飛ばしめて、此の河水を汲せて年を経れば、「此許の行人は有らじかし」と、自ら時々思ける時も有けり。然る慢(あなづり)の心有るは悪き事とも、智り無きが故に知らず。

而る間、時々、其の庵の水上より、水瓶飛び来て水を汲む。僧、此れを見て、「何なる者、此の上には在りて、此くは水を汲にか有らむ」と嫌(いぶか)しく思えければ、「尋む」と思ふ心付ぬ。

而る間、例の水瓶来て、水を汲て行く。其の時に、僧、水瓶の行く方を指て、見次に行くに、河に副て、上様(のぼりざま)五六十町許登る。見れば、僅かに庵見ゆ。近く寄て見れば、三間許の庵也。持仏堂及び寝所など有り。庵の体、極て貴気也。庵の前に橘の木有り。其の下に行道の跡、踏み付けたり。閼伽棚の下に花柄多く積たり。庵の上にも、庭にも、苔隙無く生ひて、年久しく神さびたる事限無し。

和ら寄て、窓の有より臨(のぞ)けば、文机の上に法文共置き散したり。経置き奉れり。不断香の香、庵の内に満て、馥き事限無し。

吉く見れば、年七十許有る1)僧の極て貴気なる、独鈷を捲(にぎり)て、脇足に押し懸りて、眠り入たり。此の僧、此れを見て、「此れ何者ならむ。試む」と思て、和ら寄て、窃に火界の呪を読て加持するに、庵の聖人、睡り乍ら、散杖を取て、香水に差し浸して、四方に灑ぐ。其の香水、此の下の僧の上に灑ぎ懸ると思ふ時に、僧の衣に火付て、只燃(もえ)に燃ぬ。其の時に、僧、音を挙て叫て迷(まど)ふ。只焼に焼る時に、庭に臥し丸(まろ)ぶ。

其の時に、庵の聖人、睡り醒て、目を見開て、此れを見て、亦散杖を香水に差し浸して、此の焼迷ふ僧の頭に灑ぐ。其の時、火消ぬれば、庵の聖人、寄り来り、「何ぞの御房の座して、此る目を見給ふぞ」と云ければ、下の僧、答て云く、「年来、吉野河の辺に庵室を造て行ふ修行者聖人に候ふ。而るに、水上より、常に水瓶飛び来て水を汲しを、怪しく見給へて、『何なる人の水瓶にか有らむ』と尋ねに参りたるに、御つるを見給て、『試み申さむ』と思て、加持し申つるに、此く極(いみじ)き目を見給へつれば、返々す貴く忝く思ひ奉る。今は御弟子と成て仕れむ2)」と云ければ、庵の聖人、「糸吉き事也」と云て、目を見延て、此の僧を何(いか)にも思たる気色にも無くて有ける。

下の僧は、「我れ智り無くして、憍慢の心を成(なせ)るを、三宝の「悪3)し」と思て、此る増(まさ)る聖人に値はせ給也けり」と悔ひ悲びて、本の庵に返りけり。

然れば、人、我が身賢しと思て、憍慢を成すべからずとなむ、語り伝へたるとや。

1)
底本頭注「有ル一本ナルニ作ル」
2)
底本頭注「仕レム一本仕ヘムニ作ル」
3)
「にく」底本異体字。りっしんべんに惡
text/k_konjaku/k_konjaku20-39.txt · 最終更新: 2016/03/21 16:35 by Satoshi Nakagawa