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text:k_konjaku:k_konjaku20-11

今昔物語集

巻20第11話 竜王為天狗被取語 第十一

今昔、讃岐の国□□の郡に、万能の池1)と言ふ、極て大きなる池有り。其の池は、弘法大師2)の、其の国の衆生を哀はれがり3)為に、築き給へる池也。池の廻り遥に広くして、堤を高く築き廻したり。池などは見えずして、海とぞ見えける。池の内、底井(そこひ)無く深ければ、大小の魚共量無し。亦、竜の栖(すみか)としてぞ有ける。

而る間、其の池に住ける竜、「日に当らむ」と思けるにや、池より出て、人離れたる堤の辺に、小蛇の形にて蟠り居たりけり。

其の時に、近江の国比良の山に住ける天狗、鵄(とび)の形として、其の池の上を飛び廻るに、堤に小蛇の蟠て有るを見て、□鵄、反下(そりくだつ)て、俄に掻き抓(つかみ)て、遥に空に昇ぬ。竜、力強(こは)き者也と云へども、思懸けぬ程に俄に抓まれぬれば、更に術尽て、只抓まれて行くに、天狗、小蛇を抓砕て食せむとすと云へども、竜の用力強きに依て、心に任せて抓み砕き噉む事能はずして、繚(わづらひ)て、遥に本の栖の比良の山に持4)行ぬ。

狭き峒(ほら)の動くべくも非ぬ所に打籠置つれば、竜、狭く□□5)、破(わり)無くして居たり。一渧(しづく)の水も無ければ、空を翔る事も無し。只死なむ事を待て、四五日有り。

而る間、此の天狗、比叡の山に行て、短(ひま)を伺て、「貴き僧を取らむ」と思て、夜る、東塔の北谷に有ける高き木に居て伺ふ程に、其の向に造り懸けたる房有り。其の坊6)に有る僧、延に出て小便をして、手を洗はむが為に水瓶を持て手を洗て入るを、此の天狗、木より飛来て、僧を掻き抓て、遥に比良の山の峒に将て、竜の有る所に打置つ。僧、水瓶を持ち乍ら、我れにも非で居たり。「我れ今は限りぞ」と思ふ程に、天狗は僧を置くままに去ぬ。

其の時に、暗き所に音有て、僧に問て云く、「汝は此れ誰人ぞ。何くより来れるぞ」と。僧、答へて云く、「我れは比良の山の僧也。手を洗はむが為に、坊の延に出たりつるを、天狗の俄に抓み取て、将来れる也。然れば、水瓶を持ち乍ら来れる也。抑も、此く行は誰そ」と。竜、答て云く、「我れは讃岐の国万能の池に住む竜也。堤に這ひ出たりしを、此の天狗、空より飛来て、我を抓て此の峒に将来れり。狭く□□て為む方無しと云へども、一渧の水も無ければ、空をも翔らず」と。僧の云く、「此の持たる水瓶に、若し、一渧の水や残たらむ」と。竜、来れを聞て、喜て云く、「我れ、此の所にして、日来を経て既に命終なむと為るに、幸に来会ひ給て、互に命を助くる事を得べし。若し、一渧の水有らば、必ず汝を本の栖に将至るべし」と。僧、又喜て、水瓶を傾けて竜に授くるに、一渧許の水を受つ。

竜、喜て、僧に教へて云く、「努々怖る事無して、目塞て、我れに負(おは)れ給ふべし。此の恩、更に世々にも忘難し」と云て、竜、忽に小童の形と現じて、僧を負て、峒を蹴破て出る間、雷電霹靂し、空陰り、雨降る事甚だ怪し。僧、身振ひ、肝迷て、「怖し」と思ふと云へども、竜を睦び思ふが故に、念じて負はれて行く程に、須臾に比叡の山の本の坊に至ぬ。僧を延に置て、竜は去ぬ。

彼の房の人、「雷電霹靂して、房に落懸る」と思ふ程に、俄に坊の辺、暗(やみ)の夜の如く成ぬ。暫許有て晴たるに、見れば、一夜、俄に失にし僧、延に有り。坊の人々、奇異(あさまし)く思て問ふに、事の有様を委く語る。人、皆此れを聞て、驚き奇異がりけり。

其の後、竜、彼の天狗の怨を報ぜむが為に、天狗を求むるに、天狗、京に知識を催す荒法師の形と成て行けるを、竜、降て蹴殺してけり。然れば、翼折れたる屎鵄にてなむ、大路に踏まれける。彼の比叡山の僧は、彼の竜の恩を報ぜむが為に、常に経を誦し、善を修しけり。

実に此れ、竜は僧の徳に依て命を存し、僧は竜の力に依て山に返る。此れも皆、前生の機縁なるべし。此の事は、彼の僧の語り伝ふるを、聞継て語り伝へたるとや。

1)
満濃池とも
2)
空海
3)
底本頭注「哀レガリ一本哀バムガニ作ル」
4)
底本頭注「持一本将ニ作ル」
5)
底本頭注「狭クノ下一本ツヅマリテトアリ下同ジ」
6)
底本頭注「坊一本房に作ル下同ジ」
text/k_konjaku/k_konjaku20-11.txt · 最終更新: 2016/03/07 14:55 by Satoshi Nakagawa