今昔物語集
巻2第31話 微妙比丘尼語 第(卅一)
底本、欠文。標題もなし。底本付録「本文補遺」の鈴鹿本により補う。
今昔、天竺に一人の羅漢の比丘尼1)有り。名をば微妙と云ふ。
諸の尼衆に向て、我が前世に造る所の善悪の業を語て云く、「乃往過去に一人の長者有りき。家大に富て、財宝豊也。但、子無し。後に小婦に娶て、夫、甚だ愛念する間に、一人の男子を生ぜり。夫妻、共に小児を愛して、厭ふ心無し。
而る間、本の妻、心の内に妬て思はく、『若し、此の子、勢長せば、家業を搆ふべし。我れは空くして止なむとす。我れ、寧に家業を営て、何の□か有らむ。只如かじ、此の児を殺てむ』と思て、密に鉄の針を取て、隙を量て、児の頭の上を刺つれば、児死ぬ。
母、歎き悲むで思はく、『此れ、本の妻の妬の故に殺せる也』と思て、本の妻に向て云く、『汝ぢ、我が子を殺せり』と。本の妻の云く、『我れ、更に汝が子を殺さず。呪誓□、罪の有無は見なむ。若し、汝が子を殺さらば、我れ、世々に、夫有らば、蛇(へび)の為に螫し殺され、子有らば、水に漂ひ狼に噉(くは)れむ』。誓いを成して後、其の継母死しぬ。
児を殺せるに依て、地獄に堕て、苦を受る事無量也。地獄の罪畢て、今、人と生れて、梵志の娘として、年漸く長大にして、夫に娶て、一の子を産せり。
其の後、又懐任(みごもり)ぬ。月満て、産の期に至る程に、夫を具して、父母の家へ行く。夫貧くして、従者無し。途中にして、腹を痛むで産せり。夜る、樹の下に宿ぬ。夫、別に臥たるに、忽に其の所に毒蛇来りて、其の夫を螫し殺しつ。妻、夫の死ぬるを見て、悶絶して死入ぬ。
暫許(とばかり)有て甦(よみがへり)ぬ。夜曙(あけ)ぬれば、妻一人、かくて有るべき事に非ねば、大なる児をば肩に懸て、今生ぜる児をば抱て、独り哭き悲む事限無し。猶、『祖(おや)の家に行む』と□路に進み出たるに、一の河有り。深して広し。其の河を渡て行むと為るに、大なる児をば、此方の岸に暫く置て、小(ちひさき)を抱て渡て、彼方の岸に置て、即ち返渡て、大なる児を迎へむと為るに、児、母の渡て来るを見て、水に赴き入る。母、此れを見て、迷(まどひ)て捕へむと為るに、水に流れて行くを、母、子を助けむと為るに、力及ばずして、須臾程(しばらくのほど)に、児、没して死ぬ。母、哭々還渡て、小児を見るに、血流れて、小児見えず。只、狼、地に有り。狼の為に噉せられにけり。母、此れを見て絶入ぬ。
良(やや)久く有て、甦て、路に進み出たるに、一人の梵志に遇ぬ。此れ、父の親き友也。梵志に向て、具に夫子(つまこ)共の死たる事を語る。梵志、此れを聞て、哀れむで歎き、女、『父母の家、平安也や否や』と問に、梵志の云く、『昨日、汝が父母の家に失火出来て、父母・眷属の大小、一時に焼死き』と。女、此れを聞て、弥よ歎き悲むで、死入て、又甦ぬ。梵志、此を哀むで、家に将行て養つ。
其の後、又、外の男に娶て懐妊しぬ。月満て、産の期に成る時に、夫、外に行て、酒を呑て酔て、日暮方に家に返る。妻、闇き程にて門を閉たるを、夫、門の外に立て門を叩に、妻、其の時に内に独り在て、産せむとす。産未だ生(な)らざる程に、人無くして、門を開かざる程に、終に産しつ。
夫、門を破て入て、妻を打つ。妻、産の事を陳ぶ。夫、嗔て、其の生める子を取て殺して、蘇を以て煮て、逼て妻に食はしむ。妻、心の内に思はく、『我れ、福薄きが故に、かかる夫に遇へり。只逃去なむ』と思て、棄て走り逃ぬ。
波羅奈国の内に至て、一の樹の下に居て息む間に、其の国に長者の子有り。其の妻、新く死て、夫、日来家に有て、恋悲む程に、此の女の、樹の下に独り居たるを見て問ふに、有様を答ふ。其人、此の女を娶て妻としつ。
数日を経るに、其の夫、忽に死ぬ。其の国の習として、生たる時、夫妻愛念せる者、夫死ぬれば、其の妻を生ながら埋む事、定れる例也。然れば、群賊、妻を埋まむが為に、其の家に来ぬ。賊の主、妻の形貌端正なるを見て、計て娶て妻とせり。
数日を経て、夫、他の家に行て、家を破る程に、其の家の主、賊主を殺しつ。然れば、賊の伴、屍を持来て妻に付つ。国の習なれば、其の妻を生ながら共に埋つ。三日を経て、狐狼、其の冢を鑿て、自然に出事を得たり。
女の思はく、『我れ、何なる罪を作て、日来の間、重き禍厄に遭、死て甦らむ。今、又何なる所へ行む』と思ふに、『余命有らば、釈迦仏、祇薗精舎に在ます』と聞て、詣て、出家を求む。
過去に辟支仏に食を施して、願を発せし故に、今、仏に値奉る事を得て、出家して、路を修して、羅漢と成ぬ。前世の殺生の罪に依て、地獄に堕ぬ。現在、呪誓の過に依て、悪報を受く」。微妙自ら、「昔の本の妻は、今我が身、此れ也。羅漢果を得たりと云へども、常に熱鉄の針、頂の上より入て、足の下に出ぬ。昼夜に此の苦患堪難し」と語りけり。
然れば、罪福の果報、此の如し。終に朽る事無しとなむ、語り伝へたるとや。