今昔物語集
巻2第30話 波斯匿王殺毗舎離卅二子語 第(三十)
底本、欠文。標題もなし。底本付録「本文補遺」の鈴鹿本により補う。
今昔、天竺の舎衛国に一人の長者有り。名をば梨耆弥と云ふ。七人の子有り。皆勢長して、各、夫・妻を具せり。其の第七の女子をば毗舎離と云ふ。其の人、心賢く、智(さと)り有り。
其の故を聞て、其の国の波斯匿王、「后と為む」と思て、此の人を迎へて、后として、其の後、懐妊しぬ。月満て、卅二の卵を生ぜり。其の一の卵の中より、一の男子出たり。各、形貌端正にして、勇健なる事限無し。此人、一人して、千人の力を具せり。此の卅二人、各勢長して、皆国の中の家に、高く賢き人の娘に娶て、妻とせり。
かかる程に、毗舎離、仏及び比丘を請じて、我が家にして供養し奉れり。仏、為に法を説給ふ。家の人、皆法を聞て、須陀洹果を得たり。此の卅二子も、皆果を得たるが、中に最小の児、一人未だ果を得ず。
其の小児、遊戯せむが為に、馬に乗て出る間、国の輔相の大臣の子、車に乗て橋の上にして、此の人に会ぬ。小児、此の人を取て、橋下の壍の下に投入つ。然れば、車破れて、大臣の子、身損じぬ。
父の許に行て、此の由を語る。父の云く、「彼の人は、力強く心武き人也。汝、合ふべからず。但、其事を報ぜむと思はば、密に七宝を以て、馬の鞭卅二を作て、各其の中に釼を籠て、怨の心を見せずして、彼の卅二人に与へよ」と。子、父の教に依て、忽に此れを作て、卅二人に与へつ。卅二人、此の鞭を得て、大に喜て翫ぶ。
かくて、此の国の習として、王の御前に、人、釼を帯せず。其の時に、輔相の大臣、大王に申さく、「毗舎離の子卅二人、年壮にして力強き事、一人として千人に当る。心の武き事限無し。此に依て、今謀叛を発して、利刀を作て、馬の鞭の中に籠て、王を害し奉らむと搆ふ」と。王、聞給て、「此れ実也」と信じて、此の卅二人を計て、皆殺しつ。
さて、卅二人の頭を一篋(はこ)に入れて、善く封じて、母の毗舎離の許へ送れり。其の至れるを満て、「此れ、王の許より供具を訪(とぶら)へる也」と思て、忽に開かむと為るを、仏1)制して開かしめ給はず。飯食既に果て、仏、為に無常の法を説給ふ。毗舎離、此れを聞て、阿那含果を得つ。
仏返り給て後、此の篋を開て見るに、我が子卅二人が頸を入たり。然りと云へども、毗舎離、果を証せるに依て、愛欲の心を断ち、此を満て、歎き悲む事無し。但云く、「人生れて必ず死する事也。永く相副ふ事を得ず」と。
かくて、此の卅二人の妻・□親族、此の事を歎き悲て云く、「大王、故無くして、善人共を殺せり。我等、必ず行て、其の事を報ぜむ」と云て、衆多(あまた)の兵を集めて、王を罸(うた)むとす。王、此を聞て、恐て、仏の御許へ詣ぬ。兵衆、其の由を聞て、祇薗精舎を囲み遶て、王を伺ふ程に、阿難、此の兵衆を見て、掌を合せて、問奉て云く、「毗舎離の卅二の子、前世に何なる果報有て、今、王の為に殺さるぞ」と。
仏、阿難に告て宣はく、「乃往過去に此の卅二人、他人の牛一頭を盗て、共に牽て、一の老女の家に至つて殺さむとす。老女、殺具を与へて、殺さしむるに、既に刀を下す。時に、牛、跪て命を乞ふと云へども、『殺さむ』と思ふ心盛にして、許さずして殺しつ。牛、死ぬる時、誓て云く、『汝等、今我を殺せり。我れ、来世に必ず此れを報ぜむ』と云て死ぬ。卅二人、共に此を食す。老女、又食に飽て、喜て云く、『今日、此の客人来れる、我れ喜ぶ所也』と云ふ。其の時の牛は、今の波斯匿王、此れ也。牛を殺し卅二人は、今の毗舎離が子卅二人、此れ也。其の時の老女は、今の毗舎離、此れ也。牛を殺せるに依て、五百世の中に、常に殺さるる也。老女、歓喜(よろこび)し故に、五百世の間、常に母と成て、子の殺さるるを見て、悲びを懐ける也。今、我れに会へる故に、阿那含果を得たる也」と。
卅二人の家の親族、仏の此の如き説給ふを聞て、皆怨の心止て、各云く、「一の牛を殺して、其の報を受けむ、併(しかしながら)此の如し。何況や、大王、過無くして、善人共を殺せり。豈に恨に非ざらむや。然と云へども、我等、仏の説給を聞て、怨の心止ぬ。又、大王は此れ我等が国の主也。然れば、殺害の心を止つ」と。王、又、其の罪を悔て、答る事無し。
阿難、重て仏に白て言く、「毗舎離、前世に何なる福を殖て、仏に遇奉て、道を得ぞ」と。
仏の宣く、「昔、迦葉仏の時に、一の老女有き。諸の香を以て、油に和して、行て、塔に塗き。又、路の中に卅二人有き。此を勧めて、共に行て、塔に塗き。塗果て、願を発して云く、『生れむ所には、豪貴の人と生れて、常に母子と成て、仏に遇奉て、道を得む』と。其の後、五百世の中に豪貴の人と生れて、常に母子と成れる也。仏に遇奉るに依て、道を得る事此の如し」となむ語り伝へたるとや。