今昔物語集
巻19第6話 鴨雌見雄死所来出家語 第六
今昔、京に一人の生侍有けり。何れの程と云ふ事を知らず。家、極て貧くして、世を過すに便無し。
而る間、其の妻、産して、専に宍食を願ひけり。夫、身貧くして、宍食を求得難し。田舎の辺に尋ぬべき人も無し。市に買はむと為れば、其の直無し。然れば、心に繚(わづらひ)て、未だ明けざる程に、自ら弓に箭二筋許を取り具して、家を出ぬ。池に行て、「池に居たらむ鳥を射て、此の妻に食はしめむ」と思ふ故ゑ也。「何方に行くべきにか有らむ」と思ひ廻すに、美々度呂池こそ、人離たる所なれば、「其(そこ)に行て伺はむ」と思ひ得て行にける。
池の辺に寄て、草に隠れて伺ひ居たるに、鴨雌雄、人有とも知らずして、近く寄来たり。男、此れを射るに、雄を射つ。極て喜(うれし)く思て、池に下て鳥を取て、怱て家に返るに、日暮ぬれば、夜に入て来れり。妻に此の由を告て、喜び乍ら、「朝(つと)めてに調羹して、妻に食はしめむ」と思て、棹の有るに打懸て置て臥ぬ。
夫、夜半許に聞けば、此の棹に懸たる鳥、ふたふたとふためく。然れば、「此の鳥の生き返たるか」と思て、火を灯(とも)して行て見れば、死たる鴨の雄は死乍ら棹に懸て有り。傍に生たる鴨の雌有り。雄に近付てふためく也けり。「早う、昼る池に並て喰つる雌の、雄の射殺れぬるを見て、夫を恋て取て来たる尻に付て、此に来にける也」と思ふに、男、忽に道心発て、哀れに悲き事限無し。
而るに、人、火を灯して来れるを恐れずして、命を惜しまずして、夫と並て居たり。此れを見て、男の思はく、「畜生也と云へども、夫を悲ぶが故に、命を惜しまずして、此く来れり。我れ、人の身を受て、妻を悲むで鳥を殺すと云ども、」。忽に此の宍を食はしめむ事を慈(あはれび)て、寝たる妻を起して、此の事を語て、此れを見しむ。妻、亦、此れを見て、悲ぶ事限無し。遂に、夜明て後も、此の鳥の宍を食ふ事無かりけり。
夫は、尚此の事を思ふて、道心深く発にければ、愛宕護の山に貴き山寺に行て、忽に髻を切て、法師と成にけり。其の後、偏に聖人と成て、懃に勤め行てなむ有ける。
此れを思ふに、殺生の罪重しと云へども、殺生に依て道心を発して出家す。然れば、皆縁有る事也けりとなむ、語り伝へたるとや。