今昔物語集
巻19第4話 摂津守源満仲出家語 第四
今昔、円融院の天皇1)の御代に、左の馬の頭源の満仲2)と云ふ人有けり。筑前守基経3)と云ける人の子也。世に並び無き兵にて有ければ、公けも此れを止事無き者になむ思食ける。亦、大臣・公卿より始て、世の人、皆此れを用ゐてぞ有ける。階(しな)も賤しからず。
水尾天皇の近き御後なれば、年来公けに仕ければ、国々の司として、勢徳も並び無き者にてぞ有ける。終には摂津守にてなむ有ける。年、漸く老に臨て、摂津の国の豊島の郡に、多々と云ふ所に家を造て、籠居たりけり。数(あまた)の子共有けり。皆、兵の道に達(いた)れり。
其の中に、一人の僧有けり。名をば源賢と云ふ。比叡の山の僧として、飯室の深禅僧正の弟子也。父の許に、多々に行たりけるに、父の殺生の罪を見て、歎き悲て、横川に返り上て、源信僧都の許に詣でて、語て云く、「己が父の有様を見給ふるに、極(いみじ)く悲き也。年は六十に余ぬ。残の命、幾に非ず。見れば、鷹四五十を繋て、夏飼せさするに、殺生量り無し。鷹の夏飼と云ふは、生命を断つ第一の事也。亦、河共に簗(やな)を打たしめて多の魚を捕り、亦、多の鷹を飼て、生類を食はしめ、亦、常に海に網を曳かしめ、数の郎等を山に遣て、鹿を狩らしむる事隙無し。此れは、我が居所にして為る所の殺生也。其の外に、遠く知る所々に宛て、殺さしむる所の物の員、計へ尽すべきに非ず。亦、我が心に違ふ者有れば、虫などを殺す様に殺しつ。少し『宜し』と思ふ罪には、足手を切る。『此る罪を造り積ては、後の世に何許なる苦を受ぬらむ』と思給ふるに、極て悲く思え候ふぞ。『此れ、『何で法師に成らむ』と思ふ心、付けむ』と思給ふれど、怖ろしく申し出すべくも無きに、此れ構て出家の心付させ給ひてむや。此く、鬼の様なる心にては候へども、止事無き聖人などの宣はむ事をば、信ずべき様になむ見え候ふ」と。
源信僧都、答て云く、「実に極て糸惜き事にぞ侍かし。然様の人、勧めて出家せしめたらむは、出家の功徳のみに非ず、多の生類を殺す事の止たらば、限無き功徳なるべし。然れば、己れ構へ試む。但し、己れ一人しては構へ難し。覚雲阿闍梨4)・院源君などして、共に構ふべき事にこそ有つれ。其(そこ)は、前立て多々に御して、居給たれ。己は、此の二人の人を倡(さそひ)て、修行する次に、和君の御するを尋ねて行たる様にて、其へ行かむ。其の時に、君、騒て、『然々の止事無き聖人達なむ、修行の次に、己れ問ひに坐したる』と守に宣へ。己等をば、聞て渡たらば、其れに驚き畏る気色有らば、君の宣はむ様は、『此の聖人達は、公けの召すだに、速に山を下ぬ人共也。其れに、修行の次に此に御したるは希有の事也。然れば、此る次に、聊の功徳造て、法を説かしめて、聞き給へ。此の人達の説き給はむを、聞き給てこそ、若干の罪をも滅し、命をも長く成し給はむ』と勧よ。然らば、其の説経の次に、出家すべき事を説き聞かしむ。只物語にも、守の身に染む許、云ひ聞かしめ進(たてまつ)らむや」と云へば、源賢君、喜び乍ら、多々に返り行ぬ。
源信僧都は彼の二人に会て云く、「然々の事構むが為に、摂津の国に行くべし。諸共に御せ」と。二人の人、此れを聞て、「極て善き事也」と云て、三人相具して、摂津の国へ行ぬ。
二日に行く所なれば、次の日に、午時許に、多々の辺に行て、人を以て云ひ入れしむ。「源賢君の許に、然々の人共なむ参たる。箕面の御山に参たるに、『此る便りに、何でか参らで有らむ』と思て参たる也」と、使入て、此の由を云へば、「疾く入らしめ給へ」と云て、源賢君、父の許に走り行て、「横川より、然々の聖人達なむ御したる」と云へば、守、「何に、何に」と云て、慥に問ひ聞て、「『糸止事無く貴き人達』と我も聞く。必ず対面5)して、礼み奉らむ。極て喜き事也。御儲吉せよ。吉く□□へ」と云て、立ちに立て騒ぐ。源賢君、心の内に、「喜(うれし)」と思て、聖人達を入れつ。微妙(いみじ)く面白く造たる所に入れて居へつ。
守、源賢君を以て、聖人の許に申す様、「怱ぎて其方に参るべきに、御し極(こう)じたらむに参たらむも、無心なるべければ、『今日は吉く息ませ給て、夕さり、御湯など浴させ給て、明日、参て自ら申さむ』と思給ふ。何で返らせ給ふべき」と。聖人達、答て云く、「箕面の山に参て候つる次なれば、『今日にても、罷返なむ』と思給れども、此く仰せ有れば、対面給はりてこそは罷返らめ」と。源賢6)、其の由を、返て、守に云へば、守、「糸喜き事也」と云ふに、源賢君、守に云く、「此の御したる三人の聖人達は、公の召にだに、参らぬ人共也。而るに、思の外に此く来り給へり。此の次でに、仏経をこそ供養せしめ給はめ」と。守、「汝ぢ、糸吉く云たり。現に然こそ為べかりつれ」と云て、忽に阿弥陀仏を図絵せしめ奉る。亦、法花経を始めつ。
然て、聖人達に、「此の次に、此る事をなむ思給つる。明日許は御足息めがてら留り給へ」と云はしめたれば、聖人達、「此く参ぬ。只、仰に随ひて罷り返るべき也」と云ふ。其の夜、湯沸したり。湯の有様、微妙く、物浄き事、云ひ尽すべくも無く造たり。
聖人達、終夜湯浴て、亦の日の巳の時許に成ぬれば、仏経皆出来給たり。兼て、亦、「等身釈迦仏を造奉て、供養せむ」と、先づ罪の方の事共怱ぎて、于今、供養し奉ざりけるを、「此の次に供養せむ」とて、皆調へ立て、午未の時許に、寝殿の南面に仏経皆居へ懸け奉りて、「然らば、此方に御して、此れを申し上げ奉り給へ」と云はしめたれば、聖人達、皆渡て、院源君を講師として供養す。
説経の間、時の縁の来る程にやは有けむ、守、説経を聞て、音を放て泣ぬ。守のみに非ず。館の方の郎等共、鬼の様なる心有る兵共、皆泣ぬ。
説経畢ぬれば、守、聖人達の方に詣て、対面して云く、「然るべき縁に依て、此く俄に来り給ひて、限無き功徳を修めしめ給へれば、期の来るにこそ候めれ。年は罷り老ぬ。罪は員も知らず造り積て候ふ。今は法師に成なむと思給るを、今一両日御して、同くは仏道に入れ畢させ給へ」と云ければ、源信僧都、「極て貴き事也。仰の如く、何にも侍らむ。但し、明日こそ吉日に侍れ。然れば、明日、御出家候らはむこそ吉からめ。明日過なば、久く吉日侍らず」と云り。心は、「此る者は、説経を聞たる時なれば、道心を発して、此く云にこそ有れ。日来に成なば、定めて思ひ返なむ」と思て云なるべし。
守の云く、「然らば、只今日也と云ふとも、疾く成らしめ給へ」と。僧都の云く、「今日は出家の日には悪く侍り。今日許念じて、明日の早旦に出家せしめ給へ」と。守、「喜く貴き事也」と云て、手を摺て、我が方に返て、宗と有る郎等共を召して、仰せて云く、「我れは明日に出家しなむとす7)。我れ、年来、兵の方に付て、聊に恙無かりつ8)。而るに、兵の道を立む事、只今夜許也。汝等、其の心を得て、今夜許、我れを吉く護るべし」と。郎等共、此れを聞て、各涙を流して立去ぬ。
其の後、各、調度を負ひ、甲冑を来て、四五百人許、館を三重四重に圍て、終夜、銖火(かがりび)を立て、若干の眷属を廻らしめて、緩(たゆ)み無く護つ。蠅をだに翔はせずして、明ぬれば、守、夜も曙す程をだに心もと無く思て、明るままに、湯浴て、疾く出家すべき由を云へば、三人の聖人、極て貴く云て、勧て出家せしめつ。
其の間、鷹屋に籠たる多くの鷹共、皆足の緒を切り放たる。烏の如く飛び行く。所々に有る簗に人9)遣て破つ。鷲屋に有る鷲共、皆放つ。長明10)有る大網共、皆取りに遣て、前にして切つ。倉に有る甲冑・弓箭・兵仗、皆取り出して、前に積み焼つ。年来仕ける親き郎等五十余人、同時に出家しつ。其の妻・子共、泣き合へる事限無し。出家の功徳、極て貴き事と云ひ乍ら、「此の出家は、仏、殊に喜び給らむ」と思ゆ。
守、出家して後、聖人達、弥よ貴き事共を、物語の様にて、云ひ聞かしむれば、弥よ手を摺てなむ泣き居たる。聖人達、「極て功徳をも勧め得つるかな」と思て、「今少し道心付けて返らむ」と思て、「明日許は此くて候ひて、明後日に罷返らむ」と云へば、新発(しんぼち)、極て喜て返り入ぬ。
其の日は暮ぬれば、又の日、此の聖人達云ひ合する様、「此く道心発したる時は、狂ふ様に何に盛に発たらむ。此の次に、今少し発さしめむ」とて、兼て、「若し信ずる事もや有」とて、菩薩の装束をなむ、十具許持たしめたりける。只、笛・笙など吹く人共を少々雇たりければ、隠の方に遣して、菩薩の装束を着せて、「新発の出来て、道心の事共云ふ程に、池の西に有る山の後より、笛・笙など吹て、面白く楽を調へて来れ」と云ひたれば、楽を調へて、漸く来たるを、新発、「此れは何の楽ぞ」と怪しめば、聖人達、知らぬ貌にて、「何ぞの楽にや有らむ。極楽の迎へなどの来るは、此様(かやう)にや聞ゆらむ。念仏唱へむ」と云て、聖人達、并びに弟子共十人許、諸声に貴き音をして、念仏を唱ふれば、新発、手を摺り入て、貴ぶ事限無し。
而る間、新発、居たる障紙を曳開て見れば、金色の菩薩、蓮華を捧て、漸く寄り御す。新発、此れを見付て、音を放て、板敷より丸び降て礼む。聖人達も此れを貴び礼む。菩薩、楽を引き調へて返ぬ。
其の後、新発、上て云く、「極たる功徳の限をも造らしめ給つるかな。己は量も無く、生類を殺したる人也。其の罪を滅せむが為に、今は堂を造て、自の罪をも滅し、彼等をも救ひ侍らむ」と云て、忽に堂造り始めけり。
聖人達は、亦の日の暁にぞ、多々を出て、山に返にけり。其の後、其の堂を造畢て、供養してけり。所謂る、多々の寺は、其より始めて造たる堂共也。
此れを思ふに、出家は機縁有る事とは云ひ乍ら、子の源賢が心、極て有難く貴し。亦、仏の如くなる聖人達の勧めければ、此の極悪11)の者も、善心に翻(か)へて出家する也けりとなむ、語り伝へたるとや。