今昔物語集
巻17第37話 行基菩薩教女人悪子給語 第卅七
今昔、行基菩薩は文殊の化身に在ます。
而るに、難波の江に行て、堀を開かしめ、船津を造り、法を説て人を化1)し給ふに、貴賤上下の道俗男女来集て、法を聞く。其の中に、河内の国若江の郡の川派の郷に有ける一の女人、子を抱て法会の庭に来て法を聞く。其の子、哭き譴(せめ)て、母に法を聞かしめず。其の子、年十余歳に至るまで、足立たずして、常に哭き譴て、物を噉ふ事、間無し。
而るに、行基菩薩、此の母の女に告て宣はく、「汝が子、持出でて、速に淵に棄てよ」と。諸の人、此れを聞く。当2)頭て云く3)、「慈悲広大の聖人とて、何の故を以て、『其の子を棄てよ』とは宣ふぞ」と。母、慈びの心に堪へずして、尚抱き持て法を聞く。
明る日、亦此の女、子を抱て来て、法を聞く。子「細4)」尚譶(かまびすしく)哭く。聞く者、皆此の子の音の囂きに依て、法を聞く事、詳らかならず。
而る間、行基菩薩の宣はく、「彼の女、尚其の子を淵に投棄てよ」と。母、此の事を怪むで、思ひ忍ぶ事能はずして、深き淵に行て、子を投入れつ。其の子、淵に入て、即ち浮出でて、足を踏反(そ)り、手を攅(も)み、目を大きに見暉(みくるべ)かして、慷(ねたみ)出て云く、「妬哉。我れ、今三年徴(はた)らむとしつる者を」と。
母、此れを聞て、怪むで、返来て、法を聞く。菩薩、女に問て宣はく、「何(いか)に。子をば投棄てつや、否や」と。女、具に子の水より浮出でて云ひつる事を申す。菩薩の宣はく、「汝ぢ、前世に彼が物を負て、償はざりき。然れば、今の子と成て、徴り食ふ也。此の子は昔の物の主也」と。此れを聞く人、皆な此の菩薩の、世前の事を知て教へ給ふ事を貴び悲むで、「誠に、此れ仏の化身に在ましけり」と信じて、弥よ貴びけり。
亦、此れを思ふに、尚人の物を負て償ふべき也。此く世々に責むる也けりとなむ、語り伝へたるとや。