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text:k_konjaku:k_konjaku16-18

今昔物語集

巻16第18話 石山観音為利人付和歌末語 第十八

今昔、近江の国に伊香の郡の司なる男有けり。其の妻若くして、形ち美麗也。心ばせ思量り有て、世に並無き物の上手也けり。

然れば、代々の国司、此の女の有様を聞て、「何で此の女を得む」と思て、懃ろに仮借(けそう)しけれども、女、心強くして、「吉くとも悪くとも、我が夫より外に人を見るべき事には非ず」と思ひ取て、守の文を遣ける返事をだに為ざりけり。

而るに、□□の□□1)と云ふ人、国の司として国を政つに、此の女の有様を聞て、前々の守よりも、「強に此の女を得む」と思ふに、「夫に「妻奉れ」と乞ふべきにも非ず。文を遣て仮借せむにも、前々の事を聞くに、叶ふべからず。何にせまし」と思ひ廻して謀る様、「御館に急事有り」と云て、此の郡の司を召す。郡の司、「何事か有らむ」と周(あわ)て怱ぎ参たり。

守、「前に召出よ」と云へば、郡の司、恐れ思て、膝を土に突て、畏まりて候ふ。守の云く、「国に人多かりと云へども、物の故知たる人(ひ)とは汝をなむ見る。然れば、『昔の事をも問ひ、今の事をも聞む』と思て、召つる也」と。男、「勘当には非ざりけり」と思て、昔の事など申して居たる程に、守、「酒給べ」とて、度々飲せて、気色打解ぬる時に、守の云く、「我が云はむと思ふ事なむ有る。其れをば、汝ぢ聞かむや」と。郡の司、「何でか国宣をば背き申さむ」と云へば、守の云く、「我れと尊と諍をせむと思ふに、我にも憚らず諍へ。尊、勝たらば、国を分て知らしめむ。我れ、勝たらば、吉くとも悪くとも尊の妻を我れに得させよ」と。郡の司、畏まりて云く、「国宣には何でか勝ち奉らむ。尚、此れ何なる事にか」と振ひ居れば、守の云く、「何ぞ、尊、必ず負けむ。勝つべき様も有らむ。只、勝負定め無き事也」と。郡の司、心に思ふ様、「我れ、守に勝つべき様有らじ。然(さり)とて、年来哀れに思ふ妻を出してむ事、有るべきかな。然とて、今は何がは云ふべき」と思ふ程に、守、硯を取寄て文を書く。

書畢て封じて、上に印を差(ささ)せて、其れを文箱に入て、其の文箱の上にも亦印を差せて、「此れ、彼の尊に給べ。此れを開て見るべきに非ず。此の内には和歌の本なむ有る。其の末を同心に付合せて奉れ。然れば、此れを得て、家に持行て、今日より後、七日と云はむに、返持参るべき也。和歌の本末を付合せて持参たらば尊は勝ぬ。速に国を分て知るべし。若し、付誤たらば、尊の妻を我れに得さす許也」とて、取らせたれば、郡の司、我れにも非ず此れを得て、家に返て、物歎たる気色なれば、妻、「御館に召つるは何事ならむ」と不審(おぼつかな)く思ふ程に、歎たる気色なれば、胸塞りて云く、「何事の有つるぞ」と。男、良久く答へずして、妻の顔を見て、只泣きに泣く。妻、此れを見て、肝を失て、「此れは何なりつる事ぞ」と云へば、男、踉蹡(ためらひ)て云く、「年来、汝を片時立去る事無く哀れに悲く思つるに、見む事の今五六日と思ふが悲き也」と。

妻、「奇異の事也。疾く聞かむ」と云へば、男、泣々く云はく、「守殿、然々か宣て、此の文を給たり。七日の内には何なる事と知てかは、此の歌の末を付け合はすべき。然れば、我れ負けむ事、疑ひ無き事なれば、別れなむずる事の近き也」と。妻の云く、「此の事、人の力の及ぶべき事にも非ざるなり。仏なむ世に有難き人の願をば満給ふなる。其の中にも、観音は一切衆生を哀び給ふ事、祖の子を悲ぶが如しと聞く。然れば、速に此の国の内に在ます石山の観音に申すべき也」とて、「今日より精進を始めて、七日に当らむに返るべき也」と云て、精進を始めしむ。

一家清まはりて三日と云ふに、男、石山に詣ぬ。一夜籠れるに、夢をだに見ず。男、歎き悲て、「我れ、観音の大悲の利益の内に入まじき身にこそ有らめ。然るべき事也けり」と思て後、夜に堂に出でて、歎たる気色にて家に返るに、参る人も多く、出る人も数(あまた)有り。心有る人は、「何事を歎く人ぞ」と問へば、「何事をか歎かむ」と答へつつ返るに、糸若くは無き女房の気高げなる、市女笠を着て、共に女一二人許して漸く歩て参る。此の男を見て、立留て云く、「彼の返り給ふ主、何を歎たる気色にては」と。男の云く、「我れ、何事をか歎かむ。己れは伊香の郡より参れる也」と。女房の云く、「尚ほ思ふ事有らむ。宣へ」と切(ねんごろ)に云へば、男、怪く思えて、「若し、観音の変じて宣ふ事にや有らむ」と思て、「実には然然の事に依て、観音の助を蒙らむが為に、石山に参て、三日三夜籠つるに、聊の夢をだに見せ給はねば、『然るべき事』と思ひ歎て、罷り返る也」と。女房の云く、「糸安かりける事を、疾くは宣はで、只此くぞ云へ」とて、

  「よるめもなきに人のこひしき。」

と云ふを聞くに、喜(うれし)き事限無し。

「此れは観音の示し給ふ也けり」と思ひ乍ら、「君は何こに御する人にか。何でか此の喜びは申尽べき」と云へば、女房、「知らずや。我れをば誰とか云はむ。思ひ出でて喜しくこそは」とて、寺の方へ歩び去ぬ。

男は家に返たれば、妻、待ち受て、「何に何に」と問ふに、男、「然然の事有つ」と語れば、妻、「然はこそ」と云て、此の歌の末を書て、前の文箱に具して、七日と云ふ夕方、御館に参たれば、守、「来たり」と聞て、「先づ奇異に日を違へず来たるかな。然りとも、歌の末は否(え)付(つけ)じ」と思て、「此方に参れ」と召せば、箱と歌の末とを奉れり。

守、歌の末を見て、「此れ希有の事也」と思て、箱を開て見るに、露違ふ事無ければ、返々す感じ恐れて、多の物を与へけり。亦、「我れ既に負ぬ」とて、約の如く国を分て知らしめけり。

此の箱の内の歌の本は、

  「あふみなるいかこのうみのいかなれば。」

とぞ有けるに、此く、

  「みるめもなきに人のこひしき。」

と付ければ、実に目出たし。観音の付け給はむには、当に愚ならむや。

其の後、此の郡の司、国を分て知て、観音の恩を報じ奉らむが為に、彼の石山寺に一日の法会を行ひて、永く恒例の事として、于今絶えず。其の郡の司の子孫、相継つつ、于今其の法会を勤むる也。

観音の霊験の不思議なる事、此くぞ有けるとなむ、語り2)伝へたるとや。

1)
底本頭注「而ルニノ下霊験記藤原ノ永頼トアリ」
2)
底本「語へ」。誤植とみて訂正。
text/k_konjaku/k_konjaku16-18.txt · 最終更新: 2015/12/06 13:23 by Satoshi Nakagawa