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text:k_konjaku:k_konjaku15-27

今昔物語集

巻15第27話 北山餌取法師往生語 第廿七

今昔、比叡の山の西塔に延昌僧正と云ける人の、未だ下臈にて修行しける時に、京の北山の奥に独り行けるに、大原山の戌亥の方に当て、深き山を通けるに、「人里や有る」と思て行くに、人里み見えず。

而るに、西の谷の方に髴(ほのか)に煙を見付たり。「人の有る所なめり」とて、喜び思て、怱(いそぎ)歩び行く。近く寄て見れば、一の小さき家有り。寄て人を呼べば、一人の女出来たり。僧を見て、「此れは何人ぞ」と問へば、答て云く、「修行者の山に迷ひたる也。今夜許宿し給へ」と。人、家の内に入れつ。僧、入て見れば、柴を苅て積置たり。其の上に居ぬ。

暫許(とばかり)有て、外より人入り来る。見れば年老たる法師の、物を荷ひて持来て、打置て、奥の方に入ぬ。有つる女出来て、其の結(からげ)たる物を解き、刀を以て小さく切つつ、鍋に入れて煮る。其の香、臭き事限無し。吉く煮て後、取り上て切りつつ、此の法師と女と二人して食ふ。其の後、小さき鍋の有るに、水を汲入れて、下に大きなる木を三筋許差し合せて、火を燃(も)やし立て、此の女は法師の妻也ければ、妻夫臥ぬ。早う、馬牛の肉を取り持来て食ふ也けり。

「奇異(あさまし)く餌取の家にも来にけるかな」と恐ろしく思て、「寄り臥て夜を明さむ」と思ふに、後夜に成る程に聞けば、此の法師起ぬ。涌し儲たる湯を頭に汲み懸て沐浴し、其の後に、別に置たる衣を取て着て、家を出ぬ。怪び思て、僧、窃に出て法師の行く所を見れば、後の方に小さき庵有り。其れに入ぬ。僧、窃に立聞けば、此の法師、火を打て前に灯(とも)し付て、香に火を置つ。早う、仏の御前に居て、弥陀の念仏を唱て行ふ也けり。僧、此れを聞くに、此る奇異き者と思つるに、此く行へば、極て哀れに貴く思ひ成ぬ。

夜明け離るる時に、行ひ畢て庵を出づるに、僧、値て云く、「賤人と思ひ奉るに、此く行ひ給ふは何なる事ぞ」と。餌取の法師、答て云く、「己は奇異く弊(つたな)き身に侍り。此の侍る女は、己が年来の妻也。亦、食ふべき物の無ければ、餌取の取残したる馬牛の肉を取り持来て、其れを噉て、命を養て過ぎ侍る也。而るに、念仏を唱ふるより外に勤むる事無してなむ、年来に成ぬる。死なむ時は必ず告げ奉らむ。亦、己れ死なむ後には、此の所をば寺を起給へ。今日、譲り奉りつ」と契を成して、修行者、其の所を出て、所々に修行して、山の西塔の房に返ぬ。

其の後、年月積て、修行者も止事無く成て有間に、此の餌取が契し事、皆忘れて、西塔の房に有るに、三月の晦方に、夢に、西の方より微妙の音楽の音、空に聞ゆ。漸く房の前に近付て、房の戸を叩く。「誰そ、此の房の戸を叩くは」と問へば、答て云く、「先年に北山にして契申しし乞丐に侍り。今、此の界を去て、極楽の迎へを得て参り侍る也。其の由を告げ申さむが為に、契申しし事なれば、態と参て申す也」と云て、遥に西を指て、楽の音去ぬ。「出て値はむ」と思て、怱ぎ起くと思ふ程に、夢覚ぬ。

驚き怪むで、夜明けて後、弟子の僧を呼て、彼の北山を教へて、遣て見しむ。僧、彼の所に行て見るに、妻一人、泣々く居たり。妻の云く、「我が夫は、今夜の夜半に、貴く念仏を唱へて失ぬ」と。弟子は此れを聞て、返て、其の由を師に申す。師、此れを聞て、涙を流して貴ぶ事限無し。

其の後、延昌僧正、村上の天皇に此の由を申て、其の所に寺を起たり。補陀落寺と名付く。

然れば、此れを聞く人、「食に依ては往生の妨と成らず。只、念仏に依て極楽には参る也けり」と、皆知けり。延昌僧正も、亦其の後念仏を唱へ、善根を修して極楽往生しけりとなむ語り伝へたるとや。

text/k_konjaku/k_konjaku15-27.txt · 最終更新: 2015/10/29 22:47 by Satoshi Nakagawa