今昔物語集
巻14第4話 女依法花力転蛇身生天語 第四
今昔、奈良の京の時、聖武天皇の御代に、京の東に一人の女有けり。形ち有様端正也ければ、帝王、其の女を召て、一夜懐抱し給ひにけるに、労たくや思し食けむ、金千両を銅の筥に入て給ひてけり。女、此れを給はりて後、帝王、幾く程を経ずして失給ひにけり。亦、女も其の後久しからずして死にけるに、女の云ひ置ける様、「此の千両の金を、我れ死なむ後には、必ず墓に埋め」と。然れば、遺言の如く、此の金の筥を金ね入り乍ら墓に埋てけり。
而る間、東山に石淵寺と云ふ寺有り。其の寺に参る人、返る事無くして死ぬ。然れば、世の人参らず。人、極て此れを怪み思ひけるに、其の時に吉備の大臣1)と云ふ人有けり。其の人、「彼の石淵寺に参て、此の事を試む」と思て参にけり。
夜る、只独り其の堂に入て、仏の御前に居たり。其の人、陰陽の方に達(いた)れるに依て、此く怖れぬ也けり。然れば、身を固め鎮めて居たりけるに、夜半許に、例ならず物怖しき心地して、堂の後の方より風吹き気色替て、物の来る様に思えければ、大臣、「然ればこそ、鬼の来て人を噉(く)ふ也けり」と思て、弥よ慎て身を固め、呪を誦して居たるに、後の方より、一人の女、微妙(めでた)き有様にて、漸く歩み来る。御明の光に見るに、実に怖しき物から、有様美麗也。指去(さしのき)て喬(そば)みて居ぬ。
暫許有て、女、大臣に語て云く、「我れ、年来申すべき事(こ)と有るに依て、此の堂に来るに、人、我が身を見て、怖れて皆命を失ふ。我は更に人を殺さむと思はざるほども、人、自然ら臆気して死ぬる事、既に度々也。而るに、君、臆気し給はずしも御ます。我れ甚喜ぶ所也。我が年来思ひ願ふ事を君に語るべし」と。大臣の云く、「思願ふ所、何事ぞ」と。女霊の云く、「我は其々(そこそ)こに有し人也。生たりし時、帝王の召に依て、只一度懐抱したりき。帝王、我れに千両の金を与へ給へりき。我れ、生たりし時、其の金を仕ふ事無して、死にし時、『我れ其の金を墓に埋て置け』と遺言せしに依て、金を墓に埋めり。其の罪に依て、毒蛇の心を受て、其の金を守て、墓の所に其の辺を離れずして有り。苦を受くる事量無くして、堪難き事限無し。其の墓、其々こに有り。年来を経と云へども、蛇身を免るべき方無し。然れば、君、彼の墓を掘て其の金を取出して、五百両を以て、法花経を書写供養して、我が此の苦を救ひ給へ。五百両を以ては、其の功に、君の財として仕ひ給へ。此の事を告げむと思ふに、人、皆我が体を見て、臆気して死ぬれば、于今申さずして、歎き思つるに、幸に君に会ひ奉て申つる、喜(うれし)き事限無し」と。大臣、此の事を聞て、女霊の願ふ所の事を請つ。女霊、喜て返去ぬ。
其の後、夜明ぬれば大臣返ぬ。世に大臣の返り来れるを見聞く人、奇異(あさまし)く、「猶此れ只人に非ず」とぞ讃ける。
大臣、其の後、多の人を集めて、忽に彼の女霊の教へし墓を尋て、其の所に行て、墓を掘らしむるに、人、此れを見て云く、「墓を掘る事、必ず怖れ有り。此れ何の故ぞ」と。然れども、大臣、憚らず墓を壊ち地を掘て見るに、土の下に大きなる蛇、墓を纏て2)有り。大臣、蛇に向て云く、「正しく今夜示し給ふ事有て、其の約を違へずして墓を壊つに、何の故に、蛇、此れを去らざるぞ」と。蛇、大臣の言を聞て、忽に其の所を去て、這ひ隠れぬ。
其の後見るに、一の銅の筥有り。筥を開て見れば、筥の中に沙金千両有り。即ち大臣、此れを取て、忽に法花経を書写して、大きに法花3)を行て、法の如く供養しつ。更に其の功を残さず。
其の後、大臣の夢に、彼の石淵寺にて来れりし女霊、身を微妙に荘厳して光を放て、大臣の前に来て、咲を含て、大臣に告て云く、「我れ、君の広大の恩に、法花経を書写供養し給へるに依て、今、蛇身を棄てて兜率天上に生れぬ。此の恩、世々にも忘難し」と云て、大臣を礼拝して、虚空に飛び昇ぬと見て、夢覚ぬ。大臣、其の後、哀れに貴く思て、此の事を大に普く語けり。
此れを聞く人、実に法花の力、殊勝に掲焉(いちじる)き事を貴びけり。亦、此の大臣をぞ、世の人、極く讃め貴びけり。亦、彼の女霊の法花経の利益を蒙るべき宿報の厚かりければ、此の大臣にも会たるにこそは有らめ。亦、大臣も前世の宿縁深くしてこそは、女霊をも救ふらめ。
然れば、人、此れを知て、諸の人を勧めて、同心に善根を修すべき也。此れも前生に大臣と女霊との善知識にこそは有らめ。亦、尚々法花経を書写し奉たる功徳、実に経に説給へるに違はず、此く兜率天に生れぬれば、哀れに貴き事也。
然て、彼の女霊の住ける所をば、「一夜手」と名付たり。帝王の只一夜寝給たりけるに依て金を給たれば、「一夜手」とは云なるべし。于今、奈良の京の東に其の所は有とぞ聞く。彼の石淵寺も其の東の山に有けり。
此の事は、慥に記したるを見て、此く語り伝たるとや。