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今昔物語集

巻13第17話 雲浄持経者誦法花免蛇難語 第十七

今昔、雲浄と云ふ持経者有けり。若より日夜に法花経を読誦して、年を積めり。

而る間、「国々に行て、所々の霊験を礼まむ」と思て、熊野に詣るに、志摩の国を過る間に、日暮て忽に行宿るべき所無し。而るに、大海の辺に高き岸有り。其の岸に、大なる巌の洞有り。其の洞に居て宿しにけり。此れ、遥に人離れたる界也。洞の岸の上に、多の木隙無く生ひ繁りたり。

雲浄、洞の内に居て、心を至して法花経を誦す。洞の内生臭き1)限無し2)。然れば、此れを恐るる間、夜半に微風吹て例なき気色也。生臭き香、弥よ増(ま)さる。雲浄、驚き怖ると云へども、忽に立去るべき方無し。暗夜にして東西を見る事無し。只大海の波の立つ音許を聞く。

而る間、洞の上より大なる者来る。驚き怪て、能く見れば、大なる毒蛇也けり。洞の口に有て、雲浄を呑まむとす。雲浄、此れを見て、「我れ、此にして毒蛇の為に命を棄むとす。但し、我れ法花の力に依て、悪趣に堕ちずして、浄土に生ぜむ」と思て、心を至して法花経を誦す。其の時に、毒蛇、忽に見えず成ぬ。其の後、雨降り、風吹き、雷電して、洪水、上の山に満ぬ。良久く有て、雨め止み空ら晴ぬ。

其の時に、一の人出来て、洞の口より入て、雲浄に向て居たり。此れ誰人と知らず。人来べくも無きに、此く人来れば、「此れは鬼神などにこそは有らめ」と思ふに、暗ければ、其の姿は見えず。弥よ恐ぢ怖れて有る程に、此の人、雲浄を礼して云く、「我れ、此の洞に住して、生類を害し、此に来る人を食して、既に多の年を経たり。今、亦聖人を呑むと為るに、聖人、法花を誦する音を聞くに、我れ、忽に悪心を止めて、善心に趣きぬ。今夜の大雨・雷電は、此れ実の雨に非ず。我が二の眼より流れ出る涙也。罪業を滅するが故に、慚愧の涙を流す。此れより後、我れ、更に悪心を発さじ」と云て、掻消つ様に失ぬ。雲浄、毒蛇の難を免れて、弥よ心を至して法花経を誦して、彼の毒蛇の為に廻向す。毒蛇、此れを聞て、善心を発しけむ。

夜曙(あけ)ぬれば、雲浄、其の洞を立て熊野に詣にけり。夜の雨風・雷電、其の洞の外に更に無かりけり。

「此れを思ふに、然の如きの知らざらむ所には宿すべからず」と、雲浄が語けるを聞て、語り伝へたるとや。

1)
底本、「洞の生内臭き」。誤植とみて訂正。
2)
底本、「事限し」。誤植とみて訂正。
text/k_konjaku/k_konjaku13-17.txt · 最終更新: 2015/08/05 21:18 by Satoshi Nakagawa
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