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text:k_konjaku:k_konjaku12-28

今昔物語集

巻12第28話 肥後国書生免羅刹難語 第廿八

今昔、肥後の国に一人の書生有けり。朝暮に館に参て公事を勤て、年来を経る間に、急事有て、早朝に家を出て館に参けるに、従者無くして、只我れ一人馬に乗て行く。書生が家より館の間、十余町の程なれば、例は程も無く行き着くに、経は行くに随て遠く成て、行き着く事を得ずして、道に迷て、何とも思えぬ広き野に出にけり。

此如くして、終日行くに、既に日晩れぬ。行宿るべき所無くして、只野に有り。然れば、歎き悲むで、人里に出なむ事を願ふ間に、尾崎の有る上より、吉く造たる屋の妻、僅に見ゆ。

「人里の近く成にける事」と思ふに、喜て怱(いそ)ぎ其の家に打寄て見れば、人気無し。打廻て云く、「此の家に人や在ます。出給へ。此の里をば何とか云ふ」と。家の内に女音を以て、答て云く、「此れ、誰が宣へるぞ。速に入来給ふべし」と。書生、此の音を聞くに、極て怖し。然れども、書生の云く、「我れは、此れ道に迷へる人也。怱がしき事有るに依て、入るべからず。只道を教へ給へ」と。女の云く、「然らば、暫く立ち給べし。出でて道を教へむ」と云て、女の出来むと為るに、極て恐しく思えて、馬を取て返して逃げ足に成るを聞て、女の云く、「耶々、暫く待て」とて、出来る女を見返て見れば、長の屋の檐と等くして、眼の光て見ゆれば、「然ればこそ。我れは鬼の家に来りにけり」と思て、鞭を打て逃ぐる時に、女の云く、「汝は何にして逃げむと為るぞ。速に罷り留れ」と云ふ音を聞くに、怖しと云ふも愚也1)。肝砕け心迷て見れば、長は一丈許の者の、目口より火を出して電光の如くして、大口を開て、手を打ちつつ追て来れば、見るに魂失せて馬より落ぬべきを、頻に鞭2)打て逃ぐるに、「観音助け給へ。我が経の命救給へ」と念じ奉て逃るに、乗れる馬、走り倒ぬ。書生は抜けて馬の前に落ぬ。「今ぞ捕らへられて噉はれぬ」と思ふ間に、墓穴の有るに、我れにも非ず走り入ぬ。

鬼、其の跡に来て云く、「何ら。此に有りつる奴は」と。「鬼来ぬ」と聞く程に、我をば求めずして、先づ馬を噉ぬ。書生、此れを聞くに、「馬を噉ひ畢なば、我が身を噉はむ事は疑ひ無し。此の穴に入て有をば知らぬにや有るらむ」と思て、只、「観音助け給へ」と念じ奉る事限無し。

而るに、此の鬼、馬を噉ひ畢て、此の穴の許に寄来て云く、「此れ今日の我が食に当れる者也。而るを、何ぞ召し取て給はざる。此如く非道なる事を常に至させ給ふ。我れ歎き愁ふ」と。此の音を聞くに、「『隠れ得たり』と思ふ穴をも知にけり」と書生思ふ程に、穴の内に音有て云く、「此れは我が今日の食に当れり。然れば与ふべからず。汝は噉ひつる馬にて有りなむ3)」と。

書生、此れを聞くに、「何様にても我が命は遁るべからぬ事にこそ有つれ。鬼をこそ『限無く怖し』と思ひつるに、此の穴の内には増(まさ)る鬼の有て、我れを噉てむと為るにこそ有けれ」と思ふに、悲き事限無し。「我れ、観音を念じ奉ると云へども、只今命終りなむとす。此れ前生の宿報也」と思ふ。

而る間、外の鬼、度々懃ろに訴ふと云へども、内の音許さずして、外の鬼、歎き乍ら返ぬと聞て、「今や、我れを引き寄せて噉ふ」と思ふ程に、此の穴の内の音の云く、「汝が今日此の鬼の為に食と成るべかりつるに、汝ぢ懃に観音を念じ奉れるに依て、此の難を既に免るる事を得たり。汝ぢ、此より心を至して仏を念じ奉り、法花経を受持読誦し奉るべし。抑、此如く云ふ我をば、汝ぢ知れりや否や」と。書生、知らざる由を答ふ。音の云く、「我れは此れ鬼にも非ず。此の穴は、昔し、此の所に聖人有て、此の西の峰の上に率都婆を建てて、法花経を籠め奉れりき。其の後、多の年積て、率都婆も経の皆朽失せ給ひにき。只最初の妙の一字許残り留て在ます。其の妙の一字と云ふは、此如く云ふ我れ也。我れ、此の所に有て、此の鬼の為に噉はれむと為る人、九百九十九人を助けたり。今、汝を加へて千人に満ぬ。汝ぢ、速に此を出でて、家へ至るべし。汝、努々仏を念じ奉り、法花経を受持読誦し奉るべし」と宣て、端正の童子一人を副へて家に送る。書生、泣々礼拝して、童子に随て家に返る事を得たり。

童子、家の門に送り付て、書生に教て云く、「汝ぢ、専に心を発して、法花経を受持読誦し奉るべし」と云て、掻消つ様に失ぬ。其の後、書生、泣々礼拝して、夜半の程にぞ家に返り来りける。

父母妻子に此の事を具に語る。父母妻子、此れを4)聞て、喜び悲しむ事限無し。其の後、書生、懃に心を発して法花経を受持読誦し奉り、弥よ観音を恭敬し奉りけり。

此れを以て思ふに、妙の一字そら朽残て、人を救ひ給ふ事此如し。何に況や、誠の心を□□□、法の如く法華経を書写したらむ功徳、思遣るべし。現世の利益尚し此如し。後生の抜苦疑ふべからずとなむ語り伝へたるとや。

1)
底本頭注「也ノ下丹本等ヤ字アリ」
2)
底本頭注「頻ニ鞭ノ三字一本ニヨリテ補フ」
3)
底本頭注「噉ヒツル云々ノ一句誤脱アラン」
4)
底本「を」空白。誤植か。
text/k_konjaku/k_konjaku12-28.txt · 最終更新: 2015/07/01 21:57 by Satoshi Nakagawa