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text:k_konjaku:k_konjaku12-27

今昔物語集

巻12第27話 魚化成法花経語 第廿七

今昔、大和国の吉野の山に一の山寺有り。海部峰と云ふ。阿倍の天皇1)の御代に、一の僧有けり。彼の山寺に年来住す。清浄にして仏の道を行ふ。

而る間に、此の聖人身に病有て、身疲れ力弱くして、起居る事思の如くに非ずて、亦、飲食心に叶ずして、命存し難し。然るに、聖人の思はく、「我れ、身に病有て、道を修するに堪へず。病を𡀍2)えしめて、快く行はむ。但し、病を𡀍3)えしむる事は、伝へ聞く、肉食に過たるは無かり。我れ、魚を食せむ。此れ、重き罪に非ず」と思て、窃に弟子に語て云く、「我れ、病有るに依て、魚を食して命を存せむと思ふ。汝ぢ、魚を求めて、我れに食はしめよ」と。

弟子、此れを聞て、忽に紀伊の国の海辺に、一の童子を遣て魚を買はしむ。童子、彼の浦に行て、鮮なる鯔(なよし)八隻を買取て、小櫃に入て返来る間、道にして本より童子を相ひ知れる男三人会ぬ。男、童子に問て云く、「汝が持たる物は、此れ何物ぞ」と。童子、此れを聞て、「此れ魚也」と云はむ事を頗る憚り思て、只口に任せて、「此れは法花経也」と答ふ。

而るに、男見るに、此の小櫃より汁垂て、臭き香有り。既に此れ魚也。然れば、男の云く、「此れ経に非ず。正しく魚也」と。童4)、尚「経也」と諍て、行き具して行くに、一の市の中に至ぬ。男等、此に息むで、童を留めて責て云く、「汝が持たる物は、尚経には非ず。正しく魚也」と。童は、「尚魚には非ず。経也」と云ふ。男等、此れを疑て、「筥を開て見む」と云ふ。童、開けじと為れども、男等、強に責めて開けしむ。童、恥思ふ事限無し。

而るに、筥の内を見れば、法花経八巻在ます。男等、此れを見て、恐れ怖むで5)去ぬ。童も「奇異也」と思て、喜て行く。

此の男の中に、一人有て、尚此の事を怪むで、「此れを見顕さむ」と思て、伺て童の後に立て行く。童、既に山寺に至て、師に向て具に此の事の有様を語る。師、此れを聞て、一度は怪び一度は喜ぶ。「此れ、偏に天の我れを助けて守護し給へりける也」と知ぬ。

其の後、聖人、既に此の魚を食するに、此の伺ひて来れる一人の男、山寺に至て、此れを見て、聖人に向て五体を地に投て、聖人に申して言さく、「実に此れ魚の体也と云へども、聖人の食物と有るが故に、化して経と成れり。愚痴邪見にして因果を知らざるに依て、此の事を疑て、度々責め悩ましけり。願くは、聖人、此の過を免し給へ。此より後は、聖人を我が大師として懃(ねんごろ)恭敬供養し奉らむ」と云て、泣々く返ぬ。

其の後は、此の男、聖人の為に大檀越と成て、常に山寺に行て、心を至して供養しけり。此れ奇異の事也。

此れを思ふに、仏法を修行して、身を助けむが為には、諸の毒を食ふと云ふとも、返て薬と成る。諸の肉を食ふと云ふとも、罪を犯すに非ずと知るべし。然れば、魚、忽に化して経を成れる也。努々此如くならむ事を謗るべからずとなむ、語り伝へたるとや。

1)
元明天皇
2) , 3)
口へんに愈
4)
底本頭注「童諸本童子ニ作ル次モ同ジ」
5)
底本頭注「怖ハ怪ノ誤カ」
text/k_konjaku/k_konjaku12-27.txt · 最終更新: 2015/06/29 21:37 by Satoshi Nakagawa