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今昔物語集

巻11第9話 弘法大師渡唐伝真言教帰来語 第九

今昔、弘法大師と申す聖御けり。俗姓は佐伯の氏。讃岐の国多度の郡屏風の浦の人也。初め、母阿刀の氏、夢に聖人来て胎の中に入ると見て懐妊して生ぜり。

其の児、五六歳に成る間、泥土を以て仏像を造り、草木を以て堂の形を建つ。亦、児、夢に八葉の蓮華の中に、諸の仏在まして、児と共に語ひ給ふと見けり。然れども、此の夢を父母にも語らず。況や他人にも語らむや。父母、此の児を敬ひ貴ぶ事限無し。

亦、人有て此の児を見るに、止事無き童四人、常に児に随て礼拝す。然れば、隣の人、此れを「神童也」と云ふ。

亦、母の兄に一の人有り。五位也。伊予の親王と云ふ人に□□て文を学べり。其の人、児の母に語て云く、「此の児、縦ひ僧に成るとも、尚俗典を読学ぶべき也」と。是に依て、児、俗典を学て文章を悟る。

然る間、延暦七年と云ふ年。児、十五にして京に入る。直講、味酒の浄成と云ふ学生に随て、毛詩・左伝・尚書等を読学ぶに、明なる事、兼て知れるが如し。然るに、児、仏の道を好て、漸く世を厭ふべき1)志を企つ。即ち、大安寺の勤操僧正と云ふ人に会て、虚空蔵の求聞持の法を受学て、心を至し持(たもち)て念(ねんじ)ける。

而るに、児、年十八にして心に思はく、「我れ、前に学ぶ所の俗典、惣て利無し。一期の後は是空き事也。只、如かじ、仏の道を学ばむ」と。是に依て、所々に遊行して苦行を修す。或は、阿波の国の大滝の嶽に行て、虚空蔵の法を行ふに、大なる釼空より飛び来る。或は、土佐の国の室生門崎にして求聞持の行を観念するに、明星口に入る。或は、伊豆の国の桂谷の山寺にして、自ら虚空に向て、大般若の魔事品を□□□□□□□□□□□□□間、延暦十□□と云ふ年、勤操僧正、使を□□□□□□□□□槙尾山寺に頭を剃て十戒を授く。名を教海と云ふ。□□□□年二十也。其の後、亦、自ら名を改て如空と云ふ。亦、同十四年と云ふ年、廿二にして東大寺の戒壇にして具足戒を受く。其れより名を空海と申す。

其の後、自ら思はく、「我れ外典を□□、内教を見ると云へども、心に疑を懐けり。即ち、仏の御前にして誓言を成す。我れ、速疾に仏に成べき教を知らむ。唯願くは、三世十方の仏、我が為に不二法門を示し給へ」と。其の後、夢の中に人有て、告て云く、「此に経有り。大毘盧遮那経を名づく。即ち是汝が要する所也」と。夢覚て後、心に喜を成して、夢に見る所の経を尋ね求るに、大和国高市郡、久米寺の東の塔の本にして、此の経を得たり。喜て是を開見ると云へども、悟得難し。此の朝に是を知れる人無し。「我れ唐に渡て此の教を習はむ」と思て、延暦廿三年と云ふ年の五月十二日に唐に亙る。年三十一也。

其の時、遣唐大使として、越前の守正三位藤原朝臣葛野麻呂と云ふ人、唐に亙る。其れと相共なひて亙るに、海の道三千里也。先づ彼の国に蘇州と云ふ所に至着く。其の年の八月に福州に至る。同十二月の下旬に、天皇の使を給りて、上都長安の城に至る。京師に入るに、是を見る人、道に満てり。即ち、詔に依て宣陽坊の官宅に住す。

次の年、勅に依て、西明寺の永忠和尚の旧院に移住す。遂に青龍寺の東塔院の和尚、恵果阿闍梨に値奉れり。和尚、此の人を見て、咲を含て喜て云く、「我れ汝が来たるべき事を兼て知れり。相待に久し。今日相見る事を得たり。是幸也。我れ法を授くべき弟子無かりつ。汝に皆伝ふべし」と。即ち、香花を備へて、始て灌頂壇に入る。

其の後、入学灌頂して、両部の大曼陀羅に臨て、華を抛(なぐ)るに、皆中尊に着く。和尚、此れを見て、讃め喜び給ふ事限無し。

其の後、伝法阿闍梨の灌頂の位を受く。五百の僧を請じて斎会を儲く。青龍・大興二の寺の諸の僧の信斎会2)に臨て讃め喜ぶ。其の後、和尚、日本の和尚に密教を伝ふる事、瓶の水を写すが如し。亦、諸の絵師・経師・鋳師等を召て、曼荼羅□□□□□□□□□□□□□付属して告て云く、「我れ、汝に法を授畢ぬ。今は□□□□□□□□□□天下に流布して衆生の福を増すべし」と。

其の時に、弟子供奉十禅師順暁と云ふ人有り。亦、玉堂寺の珍賀と云ふ僧有て、順暁に会て云く、「日本の沙門、縦ひ貴き聖人也と云ふとも、是れ門徒に非ず。然れば、諸教を学ばしむべきに、何ぞ秘密の教を授けらるるぞ」と、両三度妨申す。即ち、夢の中に人有て、告て云く、「日本の沙門は、此れ第三地の菩薩也。内には大乗の心を具し、外には小六沙門3)の相を示す」と云て、我が身を降伏せらるると見て、明る朝に行て過を謝しき。

亦、宮城の内に三間の壁に4)手跡有り。破損して後、人、筆を下して改る事無し。天皇、勅を下して、日本の和尚に書かしむ。和尚、筆を取て、五所に五行を同時に書給ふ。口に歌へ5)、二の手に取て、二の足に挟める也。天皇、是を見て、讃め感じ給ふ。但し、今一間には、和尚、墨を磨て壁の面に灑ぎ懸るに、自然ら間に満てる樹の字と成ぬ。天皇、首を□て6)、五筆和尚と名づけて、菩提子の念珠を施し給ふ。

亦、日本の和尚、城の内を廻り見給ふに、一の河の辺に臨むに、一人、弊衣を着せる童子来れり。頭は蓬の如き也。和尚に問て云く、「是日本の五筆和尚か」と。答て云く、「然也」と。童子云く、「然らば、此の河の水の上に文字を書くべし」と。和尚、童の云ふに随て、水の上に、清水を讃る詩を書く。其の文点破れずして流れ下る。童、是を見て、咲を含て感歎の気色有り。亦、童の云く、「我れ、亦書くべし。和尚、是を見るべし」と。即ち、水の上に龍の字を書く。但し、右に一の小点付けず。文字、浮び漂て流れず。即ち、小点を付るに、響を発し光を放て、其の字、龍王と成て空に昇ぬ。此の童は文殊に在ましけり。弊衣は瓔珞也けり。即ち失ぬ。

亦、和尚、本郷に返る日、高き岸に立て祈請て云く、「我が伝へ学べる所の秘密の教、流布相応して弥勒の出世まで持つべき地有らむ。其の所に落つべし」と云て、三鈷を以て日本の方に向て擲(なぐ)るに、三鈷、遥に飛て雲の中に入ぬ。

其の後、大同二年と云ふ年の十月廿二日に、平安に帰朝す。先づ鎮西にして、太宰府の大監、高階の遠成と云ふ人に付て、持渡れる所の法文表を、□□□□□□□□□□□□□□天下に流布すべき宣旨を申し下す。重て勅に□□□□□□□□□□□施す事並無し。「早く皇城の南面の諸門の額を書くべし」と。然れば、外門の額を書畢ぬ。

亦、応天門の額、打付て後、是を見るに、初の字の点既に落失たり。驚て筆を抛て点を付つ。諸の人、是を見て、手を打て是を感ず。

□、其の後、本意の如く真言宗を申し立て、世に弘む。其の時に諸宗の諸学者等有て、即身成仏の義を疑て論を致す時に、大師、彼の疑を断たむが為に、清涼殿にして南に向て、大日の定印を結て観念するに、顔色、金の属(たぐひ)にして、身より黄金の光を放つ。万人、是を見て、首を低(かたぶけ)て礼拝す。

此如きの霊験幾許ぞ。真言教盛りに弘め置て、嵯峨の天皇の護持僧として、僧都の位にてなむ在ましける。

此の朝に真言教の弘まる、此に始まる。其の後、此の僧都の流れ所々に有て、真言、于今盛りに弘まれりとなむ語り伝へたるとや。

1)
底本異体字「猒」
2)
底本「信」に疑問符
3)
底本頭注「小六ハ小国ノ誤カ」
4)
底本頭注「壁ニノ下羲之云々ノ文ヲ脱セルナラン」
5)
底本頭注「歌ヘハ的(クハ)ヘノ誤カ」
6)
底本頭注「首ヲノ下一本低レ礼シトアリ」
text/k_konjaku/k_konjaku11-9.txt · 最終更新: 2015/05/17 12:01 by Satoshi Nakagawa