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今昔物語集

巻11第8話 鑑真和尚従震旦渡朝伝戒律語 第八

今昔、聖武天皇の御代に、鑑真和尚と云ふ聖人在ましけり。此の人、本震旦の揚州江陽県の人也。俗姓は淳于の氏、初め十六歳にして、大周の則天の代に、長安元年と云ふ年、智満禅師と云ける僧に付て出家して、菩薩戒を受て、竜興寺と云ふ寺に住けり。殊に戒律を持(たもち)て年来を経るに、漸く年積て老に臨ぬ。

然る間、日本国より、法を学び伝へむが為に、栄睿1)と云ふ僧、震旦に渡にけり。□□□□□□□□□□□□□国に渡て、戒律の法を伝へ、□□□□□□□□□。亦、栄睿が勧めに依て、「栄睿に共なひて、日本に亙て戒律の法を伝へむ」と思て、天宝十二年と云ける年の十月廿八日の戌時に、竜興寺を出て、江頭に至て船に乗ける間、彼の竜興寺の僧共、和尚の出づるを見て、惜み悲むで、泣々く止めけれども、和尚、弘法の心深きが故に留まらずして、江頭に至て其れより下て、蘇州の黄洄の浦と云ふ所に至る。和尚の相具せる人、僧十四人・尼三人・俗廿四人也。亦、仏舎利三千粒・仏像・経論・菩提子三斗、自余の財頗る有けり。

然て、月来を経て、十二月の廿五日に、此の朝の薩摩の国、秋妻の浦に着ぬ。其(そこ)にて年越ぬ。

次の年と云ふは、天平勝宝六年也。正月の十六日に従四位上大伴の宿禰胡満(こまろ)と云ふ人に付て、和尚の震旦より渡れる由を奏す。同き二月の一日、和尚、摂津国の難波に着ぬ。天皇、是を聞食て、大納言藤原の朝臣仲麿を遣して、和尚の来れる由を問はしめ給ふ。和尚、申て云く、「我れは、是大唐揚州の竜興寺の僧鑑真也。持つ所は戒律の法。然るに、彼の法を弘め伝へむが為に、遥に此の国に来れり」と。天皇、是を聞食て、正四位下吉備の朝臣真吉備2)を以て、詔して云く、「我れ東大寺を造れるに、戒壇を起て戒律を伝ふべし。然れば、我れ専に喜ぶ所也」。是に依て、和尚を迎へて、貴み敬ひ給ふ事限無し。

其の後、忽に東大寺の大仏の前に戒壇を起て、和尚を以て戒師として、登壇受戒し給ひつ。次に后・皇子、皆沙弥戒を受給ひつ。亦、賢憬・霊福3)など云ふ僧共八十余人、戒を受つ。其の後、大仏殿の西の方に、別に戒壇院を起て、諸人登壇受戒しけり。

然る間、后の御身に病有て、愈給はざりける間、和尚、薬を奉れるに、薬の験有て其の病愈給ひにければ、天皇、喜び給て、忽に大僧正の位を授け給ふに、和尚、辞して用ひざれば、改て大和尚位と云ふ。亦、新田部の親王と云ふ人の旧宅を和尚に給て栖(すみか)とす。其の所に寺を起たり。今の招提寺4)是也。

然る間、天平宝字七年と云ふ年の五月の六日、和尚、面を西に向て結跏趺坐して失給ひにけり。其□□□□□□然れば、□□□の後、葬しけるに、時に馥(かうばし)き香、山に□□□□□□□宣ける様、「死て後三日まで頂の上暖ならむ人をば、此れ第二地の菩薩也と知るべし」と。然れば、「和尚は第二地の菩薩に在ましけり」と、皆人知にけり。

彼の唐より持渡り給へりける三千粒の仏舎利、招提寺に今におはします。和尚の墓、其の辺に有り。亦、此の国に戒壇此より始りけりとなむ語り伝へたるとや。

1)
栄叡
2)
吉備真備
3)
底本頭注「東征伝皇子ヲ皇太子ニ賢憬ヲ賢戒ニ霊福ヲ霊祐ニ作ル」
4)
唐招提寺
text/k_konjaku/k_konjaku11-8.txt · 最終更新: 2015/05/16 13:28 by Satoshi Nakagawa
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