今昔物語集
巻11第1話 聖徳太子於此朝始弘仏法語 第一
今昔、本朝に聖徳太子と申す聖御けり。用明天皇と申ける天皇の、始て親王に御ける時に、穴太部の真人の娘の腹に生せ給へる御子なり。
初め、母夫人、夢に金色なる僧来て云く、「我は世を救ふ誓有り。暫く其の御胎に宿むと思ふ」と。夫人、答て云く、「此れ、誰が宣へるぞ」と。僧、宣はく、「我は救世の菩薩也。家は西に有り」と。夫人の云く、「我が胎は垢穢也。何ぞ宿り給はむや」と。僧、宣はく、「我れ、垢穢を厭はず1)」と云て、踊て口の中に入ると見て、夢覚ぬ。其の後、喉中に物を含たるが如く思えて懐妊しぬ。
而る間、用明天皇の兄、敏達天皇の位に即給へる年、正月の一日、夫人、宮の内を廻り行て、馬舎戸(うまやど)の辺に行き至る程に、太子、生れ給へり。人来て、太子を懐て寝殿に入る。俄に赤黄なる光り、殿の内を照す。亦、太子の身、馥(かうば)しき事限無し。
四月の後、言語勢長(おとなし)く、明る如し2)年の二月の十五日の朝に、太子、掌を合て東に向て、「南無仏」と宣て礼し給ふ。
亦、太子、六歳に成給ふ年、百済国より僧来て、経論を持渡れり。太子、「此の経論を見む」と奏し給ふ。天皇、驚き怪み給て、其の故を問ひ給ふ。太子、奏し給はく、「我れ、昔、漢の国に有し時、南岳に住して仏の道修行して年積たり。今、此の国に生る。此れを見(みん)と思ふ」と。天皇、許し給ふ。然れば、太子、香を焼き経論を開き、見給て後、奏し給はく、「月の八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・卅日を、此れを六斎の日と云ふ。此の日には、梵天・帝釈、閻浮提の政を見給ふ。然れば、国の内、殺生を止むべし」と。天皇、此れを聞給て、天下に宣旨を下して、此の日殺生を止給ふ。
亦、太子、八歳に也給ふ年、冬、新羅国より仏像を渡し奉る。太子、奏し給はく、「此れ西国の聖(さかし)き釈迦如来の像也」と。亦、百済国より、日羅と□□□□□□3)衣着て、下童部の中に交はり、難波の□□□□□□4)舎奉る。太子、驚き逃給ふ時、日羅、跪て掌を合て、太子に向て云く、□□、「敬礼救世観世音。伝灯東方粟散王」と申す間、日羅、身より光を放つ。其の時に、太子、亦眉の間より光を放給ふ事、日の光の如く也。
亦、百済国より弥勒の石像を渡し奉たり。其の時に、大臣蘇我の馬子の宿禰と云ふ人、此の来れる使を受て、家の東に寺を造り、此れを居へて養ふ。大臣、此の寺に塔を起むと為るに、太子の宣はく、「塔を起てば、必ず仏の舎利を籠め奉るなり」と。舎利一粒を得て、即ち瑠璃の壺に入て塔に安置して、礼奉る。惣て太子、此の大臣と心一つにして、三宝を弘む。
此の時に、国の内に病発て死る人多かり。其の時に、大連物部弓削の守屋・中臣の勝海の王と云ふ二人有て、奏て云く、「我が国、本より神をのみ貴び崇む。然るに近来、蘇我大臣、仏法と云ふ物を発て行ふ。是に依て、国の内に病発て、民皆死ぬべし。然れば、仏法を止められてのみなむ、人の命残るべき」と。此れに依て、天皇、詔して宣く、「申す所明けし。早く仏法を断つべし」と。亦、太子、奏し給く、「此の二人の人、未だ因果を悟らず。吉き事□□□□福忽に至る、悪き事を改ては禍必ず来る5)。此の二人、必ず禍に会なむとす」と。然(さ)と云へ共、天皇、守屋の大連を寺に遣て、堂塔を破り仏経を焼しむ。焼残る仏をば、難波の江に棄てつ。三人の尼をば、責打て、追出しつ。
此の日、雲無くして大風吹き雨降る。其の時に太子、「今禍発ぬ」と。其の後に、世に瘡の病発て、病痛む事、焼割くが如し。然れば、此の二人、悔ひ悲て、奏して云く、「此の病ひ、苦痛き事堪難し。願くは三宝に祈らむと思ふ」と。其の時に勅有て、三人の尼を召て、二人を祈らしむ。亦、改めて寺塔を造り、仏法を崇むる事、本の如く也。
然る間、太子の御父、用明天皇、位に即給ひぬ。詔して、「我れ三宝を帰依せむ」と。蘇我の大臣、勅を奏6)奉じて、僧を召して、初めて内裏に入れつ。太子、喜び給て、大臣の手を取て、涙を流して宣はく、「三宝の妙なる事、人更に知らず。只、大臣独り我れに心寄たり。悦ばしき事限無し」と。
而る間、人有て、窃に守屋の大連に告て云く、「太子蘇□□□□□□□守屋7)、阿都の家に籠居て、軍を□□□□□□助むとす8)。亦、此の二人の天皇を呪ひ奉ると云ふ事聞えて、蘇我の大臣、太子に申して、共に軍を引将て、守屋を罸(うた)むと為る。
守屋、軍を発て城を固めて、禦ぎ戦ふ。其の軍、強く盛にして、御方の軍、怖惶(おぢをののき)て、三度退き返る。其の時に、太子、御年十六歳也。軍の後に打立て、軍の政人、秦の川勝に示して宣はく、「汝ぢ忽に木を取て、四天王の像に刻て、髪の上に指し、鉾の崎に捧て、」願を発て宣はく、「我等を此の戦勝たしめ給たらば、当に四天王の像を顕し奉り、寺塔を起む」と。蘇我の大臣も亦此の如く願を発て戦ふ間に、守屋の大連、大なる櫟9)の木に登て、誓て、物部の氏の大神に祈請て箭を放つ。其の箭、太子の鐙に当て落ぬ。太子、舎人迹見の赤檮に仰て、四天王に祈て箭を放たしむ。其の箭遠く行て、守屋が胸に当て、逆様に木より落ぬ。然れば、其の軍壊ぬれば、御方の軍弥よ責寄て、守屋が頭を斬つ。其の後、家の内の財をば、皆寺の物を成して、荘園をば悉く寺の領と成しつ。忽に、玉造の岸の上に、始て四天王寺を造給ひつ。
亦、太子の伯父、崇峻天皇の位に即給て、世の政を皆太子に付奉り給ふ。其の時に、百済国の使、阿佐と云ふ皇子来れり。太子を拝して申さく、「敬礼救世大悲観世音菩薩。妙教流通東方日国。四十九歳伝灯演説。」とぞ申ける。其の間、太子の眉の間より、白き光を放給ふ。
亦、太子、甲斐の国より奉れる、黒き子馬の四の足白き有り、其れに乗て空に昇て雲に入て、東を指て去給ぬ。調使丸と云ふ者、御馬の右に副て、同く昇ぬ。諸の人、是を見て、空を仰て見喤(ののし)る事限無し。太子、信濃の国に至給て、御輿10)の堺を廻て、三日を経て還給へり。
亦、太子の御姑、推古天皇位に即給ぬ。世の政を偏に太子に任せ奉り給ふ。太子、天皇の御前にして、袈裟を着、主尾を取て、高座に登て、勝鬘経を講じ給ふ。諸の名僧有て義を問ふに、説き答ふる事妙也。三日講じて畢(はて)給ふ夜、天より蓮華雨(ふ)れり。花の広さ三尺、地の上三四寸満てり。明る朝に此の由を奏す。天皇、此れを見給ふに、大に奇(あやし)み貴み給事限無し。忽に其の地に寺を起てつ。今の橘寺是也。其の蓮華、于今彼の寺に有り。
亦、太子、小野の妹子と云ふ人を使として、前身に大隋の衡山と云つ□□□□□□□11)。妹子に教へ宣ふ、「赤県の南に衡山有り。其の□□□□□□□、我が昔の同法共有、皆死にけむ。今、三人ぞ有らむ。其れに会て、我が使と名乗て、其の所に我が住せし時に持(たも)ちし法花経の合せて一巻なる御すらむ。請て持来るべし」と。妹子、教の如く彼の国に行て、其の所に至る門に、一人の沙弥有り。妹子を見、其の言を聞て、返入て、「思禅法師の御使、此に来れり」と告ければ、老たる三人の杖を搥(つい)て出来て、喜て妹子に教て、経を取せつ。妹子、経を得て、持来て、太子に奉る。
亦、太子、鵤の宮の寝殿の傍に屋を造て、「夢殿」と名付て、一月に三度沐浴して入給ふ。明る朝に出給て、閻浮提の善悪の事を語り給ふ。
亦、其の内にして、諸の経の䟽を作り給ふ。或時に七日七夜出給はず、戸を閉て、音をも聞えず。諸の人、此れを怪む。其の時に、高麗の恵慈法師と云ふ人の云く、「太子は此れ三昧定に入り給へる也。驚かし奉る事無れ」と。八日と云ふ朝に出給へり。傍に玉の机の上に、一巻の経有り。太子、恵慈に語て宣く、「我が前身に、衡山に有りし時に、持奉りし経是也。去し年、妹子が持来れりし経は、我が弟子の経也。三人の老僧の我が納し所を知らずして、異経を遣(おこせ)たりしかば、我が魂遣(やり)て取たる也」と。其の経と見合するに、此には無き文字、一つ有り。此の経も一巻に書けり。黄紙□□□の軸也12)。
亦、百済国より道欣と云ふ僧等十人来て、太子に仕る。「前の世に衡山にして法花経説き給ひける時、我等廬岳の道士として、時々参つつ聞しは我等也」と申す。
次の年、妹子、亦唐に渡て衡山に行たりけるに、前に有し三人の老僧、二人は死にけり。今一人残て云く、「去し年の秋、汝が国の太子、青竜の車に乗て、五百人を随て、東の方より空を踏て来て、古き室の内に挟める一巻の経を取て、雲を凌ぎて13)去給ひにき」と云ふを聞にぞ、「太子の、夢殿に入て七日七夜出給はざりしは、然也けり」と知る。
亦、太子の御□14)柏手の氏、傍に候時に、太子宣はく、「汝ぢ我に随て、年来一事を違はざりつ。此れ幸也。我が死なむ日は、穴を同くして共に埋むべし」と。妃の云く、「万歳千秋の間、朝暮に仕らむとこそ思給つるに、何(いか)に今日、終の事をば示し給ふぞ」と。太子の宣はく、「初め有る者、必ず終り有り。生ずるは死す。此れ人の常の道也。我れ、昔し多(あまた)の身を受て、仏の道を勤行しき。僅に小国の太子として、妙なる義を弘め、法無き所に一乗の理を説□□□□□□□□15)」此れを聞て、涙を流して、此の旨を承はる。
亦、太子、黒駒に騎(のり)て、難波の宮を出給ふ。片岡山の辺に飢たる人臥せり。乗給へる黒の小馬、歩ばずして留る16)。太子、馬より下て、此の飢人と談ひ給ひ、紫の御衣を脱て覆給て、歌を給ふ。
志弖太留耶17)。加太乎加耶末爾。伊比爾宇恵弖。布世留太此々度。阿和連於耶那志。18)
其の時に、飢人、頭を持上て返歌を奉□
伊加留加耶。度美乃乎加波乃。太衣波古曽。和加乎保岐美乃。美奈波和須礼女。19)
太子、宮に返給て後に、此の人死にけり。太子、悲び給て、此れを葬らしめ給つ。
其の時の大臣等、此の事を受けずして謗る人、七人有り。太子、此の七人を□□宣はく、「彼の片岡山に行て見よ」と。然れば、行て見るに、屍無し。棺の内、甚だ馥ばし。是を見て、皆驚き怪ぶ。
然る間、太子、鵤の宮に御坐て、妃に語ひ給ふ、「我れ、今夜世を去なむとす」と宣ひて、沐浴し洗頭し給て、浄き衣を着て、妃と床を并て臥給ぬ。明る朝に、久く起給はず。人々怪むで、大殿の戸を開て見るに、妃と共に隠れ給ひにけり。其の貌、生給へりし如し。香殊に馥ばし。年四十九也。其の終り給ふ日、黒小馬嘶き呼て、水・草を飲食ずして死ぬ。其の骸(かばね)をば埋つ。
亦、太子、隠れ給ふ日、衡山より持亙れり給へりし一巻の経、忽に見失つ。定て、亦具し奉り給へるなるべし。今の世に有るは、前に妹子が持亙れりし経也。新羅より渡り給へりし釈迦如来の像は、今に興福寺の東金堂に在ます。百済国より渡り給へりし弥勒の石像は、今古京の元興寺の東に在す。太子の作り給へる自筆の法花経の䟽は、今鵤寺に有り。亦、太子御物の具等、其の寺に有り。多の年を積めりと云へども、損ずる事無し。
亦、太子に三の名在す。一は厩戸の皇子。厩の戸辺にして生れ給へばと也。二は八耳の皇子。数人の一度に申す事を善く聞て、一言も漏らさず裁(ことわ)り給へれば也。三は聖徳太子。教を弘め人を度し給へれば也。亦、上宮太子と申す。推古天皇の御代に太子を王宮の南に住ましめて、国政を任せ奉りしに依て也。
此の朝に仏法の伝はる事は、太子の御世より弘め給へる也。然らざれば、誰かは仏法の名字をも聞かむ。「心有らむ人は、必ず報じ奉るべし」となむ、語り伝へたるとや。