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今昔物語集

巻10第36話 嫗毎日見卒堵婆付血語 第卅六

今昔、震旦の□□代に、□□州と云ふ所に、大なる山有り。其の山の頂に、卒堵婆有り。其の山の麓に、一人の嫗(おうな)住む。年八十許也。

其の嫗、日に一度、必ず、其の山の頂に有る卒堵婆を上て拝けり。大きに高き山なれば、麓より峯へ昇る程、嶮く気悪くして、道遠し。然れども、雨経るとても障らず、風吹くとても止まず、雷電すとても恐れず、冬の寒く凍れるにも、夏の熱く堪へ難きにも、一日を欠かず、必ず上て、此の卒堵婆を礼(をが)みけり。

此の如く為る事、年来に成ぬ。人、此れを見て、強に其の本縁を知らず。「只、卒堵婆を礼むなめり」と思ふ程に、夏、極て熱き比、若き男童子等、此の山の峯に上て、卒堵婆の本に居て冷(すず)む間、此の嫗、腰は二重なる者の杖に係かりて、汗を巾(のご)ひつ、卒堵婆の許に上り来て、卒堵婆を匝(めぐり)て見れば、「只、卒堵婆を匝り奉るなめり」と思ふに、卒堵婆を匝る事の怪しければ、此の冷む者共、一度にも非ず、度々此れを見て云く、「此の嫗は何の心有て、苦しきに、此の如くは為るにか有らむ。今日来たらば、此の事問はむ」と云ひ合せける程に、常の事なれば、嫗、這々(はふはふ)上りにたり。

此の若き男共、嫗に問て云く、「嫗は何の心有て、我等が若きそら冷まむが為に来るそら猶苦しきに、『冷まむが為なめり』と思へども、冷む事も無し。亦、為る事も無きに、老たる身に、日毎に上り下るるぞ。極て怪しき事也。此□□□知らしめ給へ」と。嫗の云く、「此の比の若き人は、実に怪しと思すらむ。此の如く来て、卒堵婆を見る事は、近来の事にも非ず。我れ、者の心知り初めてより後、此の七十余年、日毎にかく上て見る也」と。男共の云く、「然れば、其の故を知らしめ給へと云ふ也」と。

嫗の云く、「己れが父は百廿にてなむ死にし。祖父は百卅にてなむ死にし。亦、其れが父や祖父などは二百に余てなむ死にけり。『其等が云ひ置きける』とて、『此の卒堵婆に血の付かむ時ぞ、此の山は崩れて、深き海と成るべき』と、父の申し置しかば、『麓に住む身にて、山崩れば、打ち襲はれて死にもぞ為る』とて、『若し、血付かば、逃て去らむ』と思て、かく日毎に卒堵婆を見る也」と。

男共、此れを聞て、嗚呼(をこ)つき嘲て、「恐しき事かな。崩れむ時は告げ給へ」と云て、咲ひけるをも、嫗、我れを咲ひ云ふとも心得で、「然也。何でか、我れ独り生かむと思て、告申さざらむ」と云て、卒堵婆を匝り見て、返り下ぬ。

其の後、此の男共の云く、「此の嫗は、今日は来じ。明日ぞ、亦来て卒堵婆を見むに、怖(お)どして走らしめて、咲はむ」と云ひ合はせて、血を出して、此の卒堵婆に塗り付て、男共は返て、里の者共に語て云く、「此の麓なる嫗、日毎に上て、峯の卒堵婆を見るが怪ければ、其の故を問ふに、然々なむ云ひつれば、明日、『怖どして走らしめむ』とて、卒堵婆に血をなむ塗て下ぬる」と。里の者共、此れを聞て、「然ぞ、崩れなむ物かな」など云ひ、咲ふ事限無し。

嫗、亦の日、上て見るに、卒堵婆に濃き血、多く付たり。嫗、此れを見て、迷ひ倒れて、走返て、叫て云く、「此の里の人、速に此の里を去て、命を生くべし。此の山、忽に崩れて、深き海と成なむとす」。此の如く、普く告げ廻して、家に返り来て、子孫に物の具共を荷ひ持たしめて、其の里を去ぬ。

此れを見て、血を付し男共、咲ひ喤(ののし)り合ひたる程に、其の事と無く、世界さざめき喤り合たり。「風の吹き出づるか、雷の鳴るか」など思て、怪しぶ程に、虚空つつ暗(やみ)に成て、奇異に恐ろし気也1)

而るに、此の山、動ぎ立たり。「此れは何々(いかにいか)に」と、云ひ喤り合たる程に、山は、只、崩れに崩れ行く。其の時に、「嫗、実を云ひける物を」など云て、適に逃得たる輩有りと云へども、祖(おや)の行きけむ方を知らず、子の逃(にげ)けむ道を失へり。況や、家の財物の具、知る事無くして、音を□□□叫び合たり。

此の嫗一人は、子孫引具して、家の物の具共一つ失ふ事無くして、兼て逃げ去て、他の里に静に居たりけり。此の事を咲ひし者共は、逃敢へずして、皆死にけり。

然れば、年老たらむ人の云はむ事をば信ずべき也。かくて、此の山、皆崩れて、海に成りにけり。奇異の事也となむ、語り伝へたるとや。

1)
「気也」は底本「製也」。誤植とみて訂正
text/k_konjaku/k_konjaku10-36.txt · 最終更新: 2017/04/23 13:18 by Satoshi Nakagawa
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