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text:k_konjaku:k_konjaku10-10

今昔物語集

巻10第10話 孔子逍遥値栄啓期聞言語 第十

今昔、震旦に、孔子、□□□云ふ所に、林の中の岳(をか)の有る所に行て、逍遥し給けり。孔子は琴を弾き給ふ。弟子十余人許を引将て、廻に居しめて、文を読ましむ。

其の時に、海より、小船に乗たる翁の、帽子を着たる、漕ぎ来て、船を葦に繋て、陸に登て、杖を突て来て、孔子の弾き給ふ琴の調べ□□聞く。孔子の弟子等、此の翁を見て、怪しび思ふ間に、翁、弟子一人を招く。然れども、弟子等、目見係けずして行かず。

翁、強に招く時に、一人の弟子、寄りぬ。翁、弟子に問て云く、「此の琴弾き給ふ人は誰(た)そ。若し、国の王か」と。弟子□□、国の王にも非ず」と。翁の云く、「然らば、国の大臣か」と。弟子の云く、「大臣にも非ず」と。翁の云く、「然らば、国の司か」と。弟子の云く、「国の司にも非ず」と。翁の云く、「然らば、何人ぞ」と。弟子の云く、「只、国の賢こき人として、庁(まつりごと)を直し、悪き事を止めて、吉き事を勤むる人也」と。翁、此れを聞て、疵咲(あざわらひ)て云く、「此れ、極たる嗚呼(をこ)人也」と云て去ぬ。

弟子、翁の言を聞て、帰て、孔子に此の事を語る。孔子、此れを聞て云く、「其れは、極たる賢き人にこそ有なれ。速に呼び還すべし」と。弟子、走り行て、翁の、今船に乗て、既に漕ぎ出づるを呼び還す。

翁、呼ばれて、還て、孔子に会ぬ。孔子、翁に云く、「君、何人ぞ」と。翁の云く、「我れ、何人にも無し。只、船に乗て、心を行さむが為に、罷り行く翁也。亦、君は何事を役とし給ふ人ぞ」と。孔子の云く、「己のれは、世の庁を直し、悪き事を止め、善き事を行はむが為に、罷行く者也」と。

翁の云く、「其れ、極て墓無き事也。世に蔭を厭ふ人有り。晴に出でて、蔭を離れむと走る時には、蔭を離るる事無し。蔭に寄て、心静に居なば、蔭は離るべきに、然は為ずして、晴に出でて離々1)れむと為る時には、身の力こそ尽れども、蔭離るる事無し。亦、犬の死骸、水に流れて下る。此れを要して走る者有り。即ち、水に溺れて死ぬ。然れば、此等の譬の如く、此れ、極て益無き事也。只、然るべき所に居所を示て2)、静に一生を送られむ。此れ、此の生の3)望也。而るに、其の事を思はずして、心を世々に染めて騒がるる事、極て墓無き事也。我が身には、三の楽有り。人と生たる、此れ一の楽也。人に男女有り。而るに、男と生れたる、此れ二の楽也。我れ今年九十五に成る、此れ三の楽也」と云て、孔子の答を聞かずして、還り行て、船に乗て、漕ぎ出でて去ぬ。

孔子、其の漕ぎ行く翁の後を見て、二度び礼し給ふ。船に乗て行く棹の音、聞こえず成るまで、礼(をが)み入て居給へり。棹の音、聞こえず成ぬる後にぞ、車に乗て、還り給ける。

此の翁の名をば、栄啓期となむ云ひけると、人の語り伝へたるとや。

1)
底本頭注「離々一本離ニ作リ亦上ニ蔭ヲトアリ」
2)
底本頭注「示ハ占ノ誤カ」
3)
底本頭注「此ノ生一本此ノ一生ニ作ル」
text/k_konjaku/k_konjaku10-10.txt · 最終更新: 2017/03/19 16:34 by Satoshi Nakagawa