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今昔物語集

巻1第6話 天魔擬妨菩薩成道語 第六

今昔、菩薩1)、菩提樹の下にして思給に、過去の諸仏、何を以てか、座として無上道を成(じやうじ)給けむ」と思すに、「草を以て座と為べし」と知給ぬ。

其の時に、帝釈、化して人と成て、清く軟かなる草を取て来れり。菩薩、問て宣はく、「汝をば誰とか云ふ」と。答て云く、「吉祥と名づく」。菩薩、喜て宣はく、「我れ、不吉祥を破して吉祥と成ぬ。又、汝が手に持たる草は得べきや否や」と。爰に吉祥、草を菩薩に授け奉て、願を発して云く、「菩薩道を成給はむ時、先づ我を度し給へ」と。菩薩、草を受取て、座として、其の上に結跏趺坐し給ふ事、過去の諸仏の如し。自誓て宣はく、「我れ、正覚成ぜずば、永く此の座を立たじ」と。其の時に、天竜八部、皆歓喜し、虚空の諸天、讃め奉る事限無し。

其の時に、第六天の魔2)の宮殿、自然ら振ひ動く。魔王の思ふ様、「沙門瞿曇3)、樹下に在して五欲を捨て、端坐思惟して正覚を成ずべし。若し、其れ道を成じて、広く一切を度せば、我が境界に超て増(まさり)なむとす。我れ、彼が未だ道を成さぬ前に行て、壊り乱らむ」と。

魔王の子有り。名をば薩陀と云ふ。父の、此の事を歎き憂へる形を見て、父に云く、「何の故に歎き憂へ給へるぞ」と。魔王の云く、「沙門瞿曇、今樹下に坐して、道を成じて、我れを超て増なむとす。我れ、彼を破り乱らむと思ふ」と。魔の子、父を呵嘖して云く、「菩薩は清浄にして比ふ者無し。天竜八部、悉く守護す。神通・智恵、明かならずと云ふ事無し。妨げ給べき事にも非ず。何ぞ、悪を作り咎を招かむ」と。

又、魔王、三人の女有り。形ち端正にして、天女の中に勝たり。一をば染欲と云ふ。二をば能悦人と云ふ。三をば可愛楽と云ふ。三人の女、共に菩薩の御許に詣て、申して云く、「公、徳至り給て、人天に敬はれ給ふ事限無し。我等、年盛にして、端正なる事、並ぶ者無し。父の天、我等を奉て供養せしむ。朝暮に候はむ」と。菩薩の宣はく、「汝等、少(いささか)の善を殖たる故に、天の身を受たり。形ち美也と云へども、心に無常を念じず。死て、必ず三悪道の中に堕つべし。我れ、更に用ゐるべからず」と。

其の時に、此の三人の天女、忽に変じて老耄しぬ。頭白く、面皺み、歯落て、涎を垂る。腰曲て、腹大なる事鼓の如し。杖に懸て、羸(つかれ)て行歩に能はず。

魔王、此れを見て、軟なる語にて、菩薩を誘(こしら)へて申さく、「若し、汝ぢ人間の受楽を欣給はずば、我等を天宮に登すべし。我れ、天の位及び、五欲の具を捨て、汝に与へむ」と。菩薩の宣はく、「汝ぢ、先世に少の善を修して、今自在天王と成る事を得たり。福の期有て、終に三途に沈て、出る期有らじ。此れを罪の因とす。此れ、我が用いる所に非ず」と。魔の云く、「我が果報をば、汝ぢ知れり。汝が果報をば、誰か知れる」と。菩薩の宣はく、「我が果報をば、天地の知れる也」と。

此く説給ふ時に、大地、六種に振動し、地神、七宝の瓶を以て、其の中に蓮華を満て地より出して、魔王に云く、「菩薩、昔し、頭目・髄脳・国城・妻子等を、諸の人に与へて、無上菩提を求給ひき。此の故に、汝、今菩薩を悩乱せしむべからず」と。魔、此れを聞て、心に怖れを成し、身の毛竪(よだ)つ。地神、又菩薩の足を荷て、花を供養し奉て後失ぬ。

魔王の思ふ様、「今は我れ此の瞿曇の心を悩乱せさする事非じ。只、方便を儲けむ。諸の軍を集めて、力を以て責め罸(うた)む」と思ふ。忽に諸の軍、虚空に満ぬ。形、各異にして、或は戟を取り釼を持て、頭に大樹を戴けり。手に金剛杵を取り、或は猪の頭、或は竜頭、此の様の怖しき形の類ひ、若干有り。又、魔の姉妹有り。一をば弥伽と云ふ。二をば迦利と云ふ。各、手に髑髏の器を取て、菩薩の御前に来て、異なる形共を現ず。

諸の魔は、醜き形共を現じて、菩薩を怖(おど)し奉らむとす。然れども、菩薩の一毛をも動し奉る事成し。然れば、弥よ憂へ歎く事限無し。

空の中に神有り。名を員多と云ふ。身を隠して云く、「我れ、今、牟尼尊4)を見奉るに、心安くして、怨の思無し。此の諸の魔衆、毒心を発して、横ざまに怨心を成す事無かれ」と。魔、空の中の音を聞て、悔恥て、憍慢・嫉妬の心を永く止めて、本の天宮に還りにけりとなむ、語り伝へたるとや。

1) , 3) , 4)
釈迦
2)
底本頭注「魔一本魔王ニ作ル」
text/k_konjaku/k_konjaku1-6.txt · 最終更新: 2020/01/26 22:04 by Satoshi Nakagawa