ユーザ用ツール

サイト用ツール


text:k_konjaku:k_konjaku1-18

今昔物語集

巻1第18話 仏教化難陀令出家給語 第十八

今昔、仏1)の御弟に難陀と云ふ人有り。始め、在家の時、五天竺の中に形ち勝れて端正限無き女を妻として、其の愛欲に着して、仏法をも信ぜず、仏の呵嘖にも随はず。

其の時に、仏、尼拘類薗に在まして、難陀を教化せむが為めに、阿難と共に、難陀が家に行給ふ。難陀、高き楼に昇て、遥に見るに、仏、鉢を以て乞食し給ふ。難陀、此れを見て、高楼より怱(いそぎ)下て、仏の御許に至て、白して言さく、「君は姓転輪聖王也。何ぞ自ら辱を捨て、鉢を持て乞食し給へるぞ」と云て、自ら鉢を取て、家の内に入て、甘美の飲食を盛て、仏の御許に詣るに、仏、鉢を受取給はずして、尼拘類薗に返給て、難陀に宣はく、「若し、汝、出家せらば、鉢を受けむ」と。難陀、此の事を聞て、仏語に随て、鉢を奉る。

其の時に、妻、出て、「速に返ね」と云ふ。難陀、出家を思ふ故に、仏の御許に至て、鉢を授奉て云く、「願くは、此れを受給へ」と。仏、難陀に告て宣はく、「汝ぢ、既に此に来れり。今は頭を剃て、法服を服(き)よ。『返らむ』と思ふ事無かれ」と。仏、威神の力を以て、難陀を迫(せめ)て、阿難を以て出家せしめ給つ。然れば、難陀を静室に居て、仏、漸く誘(こしら)へ直し給ふに、難陀、歓喜す。

而るに、難陀、尚、「妻の許へ行む」と思ふ心有て、仏の外に御座(おはし)たる間に行むと為るに、出むと為る戸、忽に閉られぬ。又、他の戸は開ぬ。然れば、其の開たる戸より出むとすれば、其の戸は閉て、他の戸は開ぬ。此の如くして、更に出られぬ程に、仏、返給ぬれば、出る事能はず。又、「仏の速に出給へかし。其の間に妻の許へ行む」と思ふ程に、仏、外へ御ますとて、難陀に篲(ははき)を与へ給て、「此を掃くべし」とて出給ぬれば、「疾く掃畢む」とて怱ぎ掃くに、自然ら風出来て、塵を吹返して、掃き畢て得ざる程に、仏返給ぬ。

又、仏の外に御したる程に、難陀、僧房に出て思ふ様、「我れ、此の間に妻の許へ行む。仏は必ず本の道よりぞ返給はむ。我れは、他の道を行む」と思て行く程に、仏、空に其の心を知給て、其の難陀が行く道より返り給ふ程に、難陀、遥に仏の来給ふを見奉て、大なる樹の有る本に立隠る。其の時に、樹神、忽に樹を挙げて、虚空に有しむ。其の時、難陀顕れぬ。仏、難陀を見給て、精舎に将返給ひぬ。

此の如くして、妻の許へ行く事を得ず。仏、難陀に告給はく、「汝ぢ、道を学せよ。後世を顧みざる、極て愚なる事也。我れ、汝を天上に将行て見しめむ」と宣て、忉利天に将昇給ぬ。諸天の宮殿共を見せ給ふに、諸の天子・天女と共に娯楽する事限無し。

一の宮殿の中を見るに、衆宝荘厳、称て計ふべからず。其の中に、五百の天女は有て、天子は無し。難陀、此れを見て、仏に問ひ奉る、「何(いかな)れば、此の宮殿には、天女のみ有て、天子は無きぞ」と。仏、天女に問給ふに、天女、答て申さく、「閻浮提に仏の弟難陀と云ふ人有り。近来、出家せり。其の功徳に依て、命終て、此の天の宮に生るべし。其の人を以て天子と為べきが故に、天子無き也」と。難陀、此れを聞て、「我が身此れ也」と思ふ。仏、難陀に宣はく、「汝が妻の端正なる事、此の天女と何に」と。難陀の云く、「我が妻をこの天女に思ひ競れば、彼は獼猴を見るが如し。然れば、我が身も又然の如き也」と。難陀、此の天女を見つるに、妻の事忽に忘れて、持戒の者と成て、「此に生む」と思ふ心、出来ぬ。

又、仏、難陀を地獄へ将御ます。其の道に、鉄囲山を経て、山の外に獼猴女と云ふ者有り。端厳美麗2)なる事並び無し。其の中に、孫陀利と云ふ者有り。難陀、此れを見る。仏、難陀に問給ふ、「汝が妻、此の孫陀利と何ぞ。此獼猴の如也や」と。難陀の云く、「百千倍に及ぶとも類ふべからず」と。仏の宣はく、「又、孫陀利を以て天女に比るに、何にぞ」と。難陀云く、「又百千万倍3)にも類ふべからず」と。

仏、難陀を地獄に将至り給ぬ。諸の鑊(かま)共を見せ給ふに、湯、盛に涌きて、人を煮る。難陀、此れを見て、恐(おぢ)怖るる事限無し。但し、一の鑊を見るに、湯のみ沸て、煮る人無し。難陀、此れを見て、獄卒に問て云く、「何ぞ、此の鑊に入る人無ぞ」と。獄卒の云く、「閻浮提に有る仏の弟難陀、出家の功徳を以て、忉利天に生れて、天の命尽て、終に此の地獄に堕むとす。此の故に、我れ、今鑊を吹て、彼の難陀を待也」と。難陀、此の事を聞て、怖る事限無して、仏に申さく、「願くは、我れを速に閻浮提に将返り給て、擁護し給へ」と。仏、難陀に宣はく、「汝、戒を持(たもち)て、天の福を修せよ」と。難陀の申さく、「我れ、今は天に生れむ事を願はず。只、我れを此の地獄に落し給ふ事無かれ」と。

仏、難陀と共に閻浮提に返り給て、難陀の為に一七日の内に法を説て、阿羅漢果を証(さとら)しめ給てけりとなむ、語り伝へたるとや。

1)
釈迦
2)
底本頭注「端厳諸本端正ニ作ル」
3)
底本頭注「万字諸本ニナシ」
text/k_konjaku/k_konjaku1-18.txt · 最終更新: 2016/04/19 18:45 by Satoshi Nakagawa