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十訓抄 第十 才芸を庶幾すべき事
10の74 小一条左大将済時卿の六代にあたりて宗綱宮内卿師綱といふ人・・・
校訂本文
小一条左大将済時卿1)の六代にあたりて、宗綱宮内卿師綱2)といふ人ありけり。白河院3)に仕へけるが、させる才幹はなかりけれども、ひとへに奉公をさきとして、私をかへりみぬ忠臣なるによて、近く召しつかはれけり。
そのしるしにやありけん、陸奥守になされにければ、かの国に下りて、検注を行ひけるに、信夫の郡司にて、大庄司季春4)といふ者、これを妨(さまた)げけり。国司、宣旨を帯して、押へてとげむとするほどに、季春をせきとどめんがために、こころみに兵むかふるあひだ、合戦に及びて、国司方に、人、あまた討たれにけり。
国司、大きに怒りをなして、ことのよしを在国司基衡5)にふれけり。このこと、おどしにこそせさせたりけれ。国司の、これほどたけくて、戦ひすべしとまで思はざりければ、基衡さわぎて、季春を呼びて、「いかがすべき」と言ひ合ひけるに、「主命によりて、宣旨をかへりみず、一矢は射候ひぬ。この上は、いかにも違勅のがれ候ふべきにあらず。季春が頸を切りて、早くぞ国司の心はしづまり給はんなれば、われは知らず顔にて、季春が一向咎(とが)になして、切りて身を安くし給ふべし」と言ひければ、まことに、このほかは平らぐべき力なく思えて、歎きながら、国司の返事に申しけるは、「例なき検注を行ふにつきて、季春、ことのやうを申し述ぶるばかりにこそ存じ候ひつれ。かくほどの狼藉出で来ること、申して余りあり、ことに恐れ思ひ給へり。基衡、つゆ知り及び侍らざれば、はやく検見を給はりて、季春が頸を切りて奉るべき」むね申しける。
かく6)は聞こえつ。つくづくこれを案ずるに、季春、代々伝はれる後見なるうへ、乳母子なり。主人の下知によて、しいでたることゆゑ、たちまちに命を失ふこと、せちにいたましく思えければ、とかく案じめぐらして、わが妻女を出だし立て、よき馬どもをさきとして、多くの金・鷲の羽・絹布やうの財物を持たせて、われは知らぬよしにて、季春が命を買ひ受けさせんがために、国司のもとへやる。
妻女、目代を語りて、季春がさりがたく、不便なるやうを、言葉を尽して、ひらに彼が命を乞ひ受けけり。
目代、執り申すに、国司、大きに腹立ちて、「季春、国民の身にて、かくほとの僻事(ひがごと)をし出だしたる、公家にそむき、宰吏7)あなづりて、その科(とが)、すでに謀叛にわたる。財を奉ればとて、なだめゆるさんこと、君の聞こしめされん、そのおそれ、はなはだ多し。人の謗(そし)り、またいくばくぞ。このこと、さらさら申すべからず」とぞ言はれける。
昔、殷紂の西伯を捕へたりけるに、大顛・閎夭8)のともがら、善馬以下、宝を奉りてゆりにけり。これはそれにもよらさりければ、その妻、申しかねて帰りにけり。
そののち、検非違所の書生を実検使にさしつかはすによりて、基衡、力及ばず。泣く泣く、季春ならびに子息・舎弟等、五人が頸を切りてけり。さてこそ、国司しづまりにけれ。
国の者ども言ひけるは、「季春が命を助けんために、国司に送るところのもの、一万両の金をさきとして、多くの財なり。ほとんど、当国の一任の土貢にもすぐれたり。これを見入れ給はず、女にもかたさらずして、つひにためしを立て給へる国司の憲法、たとへを知らず」とぞ、ほめののしりける。
かかりければ、国、しかしながら、なびきしたがひて、思ふさまに行ひけり。吏務の感応、前々の国司よりも、こよなう重かりけり。のちに君、聞こしめして、いみじく御感ありけるとぞ。
昔、秦の昭王の時、孟嘗君、重き咎ありて、死罪にあたるべかりけるに、その后(きさき)、幸姫と聞こえ給ひしに、狐白裘を奉りて、命生きにけり。殺すべきほどの犯しあらんには、なにの賂(まひなひ)にも、なじかはふけるべき。主(ぬし)亡びなば、その財、国の外に出づべからず。みな王の心なるべきに、后の欲の深く、すなほならぬ心のほどのあらはれて、いかでか、国王の后宮とはなり給ひけるぞ、とあやし。
かの義家朝臣9)の、陸奥守に下向の時、子細ありて、家衡10)・武衡11)をせめけるに、舎弟義光12)の郎等季方が、敵の館の中に呼ばれて、引出物・金を取らずして返りけるに、言葉には、「そこたち亡び給ひなば、これみな、われらがものなり。いそがしくたまはるに及ばず」とぞ言ひける。
まことにや、季春があひだのこと、いたづらごとなれども、一のをかしきことありけり。国司師綱、下られける時、山林房覚遊といふ猿楽、ともに下れりけり。もとは南都の悪僧にてありけるとて、武勇をこととし、太刀を身にはなたざりけり。合戦の日、むねとこれたのみたりければ、物具してうち出でたるに、季春が兵(つはもの)、進み寄るを見て、いまだ一矢も射ぬさきに、鞭をあげて、うしろの山に逃げ入りにけり。
こと果てて、つれなく帰り来けるに、国司、これを嘲りて、「山林房の覚遊」を改めて、「先陣房の覚了」とぞ、付けたりける。人々、笑ひにけり。
これを聞くに、恵心僧都13)の『往生要集』に、人の定相なき喩へを引きて、「陣の内の軍(いくさ)の、剣(つるぎ)に臨みて還り、水上の月の、波の動静に14)随ふ如し」と書き給へるこそ、理(ことわり)なりけれと、思ひ出でらるれ。かの僧も、さすが、よも始めより、さしも逃げん15)とまでは、思はざりけんかし。
そもそも、季春、国民たりながら、国司を射奉ること、罪科すでに違勅の者なり。なだめ、ゆるさるべきゆゑなければ、国司の清廉、まさしく章条のさすところなり。
翻刻
七十六小一条左大将済時卿の六代にあたりて、宗綱宮内卿師/k125
綱と云人ありけり、白河院に仕へけるか、させる才幹はなか りけれとも、偏に奉公をさきとして、私をかへりみぬ忠臣なる によて、近く召仕はれけり、そのしるしにや有けん、陸奥守に なされにけれは、彼国に下て検注を行けるに、信夫の郡司に て大庄司季春と云もの是を妨けり、国司宣旨を帯 してをさへて遂とする程に、季春をせきととめんかため に、試に兵むかふる間合戦に及て、国司方に人あまた打 れにけり、国司大きにいかりをなして、事由を在国司基 衡にふれけり、此事おとしにこそせさせたりけれ、国司の 是ほとたけくてたたかひすへしとまて思はさりけれは、基衡さ/k126
はきて季春をよひて、いかかすへきと云合けるに、主命によ りて宣旨をかへりみす一矢はゐ候ぬ、此上はいかにも違 勅のかれ候へきにあらす、季春か頸を切てはやくそ国 司の心はしつまり給はんなれは、我はしらすかほにて、季春か 一向とかになして切て身をやすくし給へしと云けれは、 実に此外はたいらくへきちからなくおほえて歎きなから、 国司の返事に申けるは、例なき検注を行につきて、 季春事のやうを申のふるはかりにこそ存候つれ、かくほ との狼藉出来事、申てあまりあり、殊に恐思給へり、 基衡つゆ不知及侍れは、早検見を給て、季春か頸を/k127
切て奉へきむね申ける、かりは聞つつくつくこれを案に、季 春代々伝はれる後見なるうへ乳母子也、主人の下知によてし いてたる事ゆへ、忽に命を失事せちにいたましくおほ えけれは、とかく案し廻て、我妻女を出立てよき馬共を さきとして、多の金鷲の羽絹布やうの財物をもた せて、我はしらぬ由にて、季春か命をかひうけさせんかため に、国司のもとへやる、妻女目代を語て、季春かさりかた く不便なるやうを詞を尽て、ひらに彼か命をこひうけけ り、目代執申に、国司大に腹立て、季春国民の身にて、か くほとの僻事をし出たる、公家にそむき宰史あなつ/k128
りて、其科すてに謀叛にわたる、財をたてまつれはとて、な ためゆるさん事、君の聞食れん其恐甚多し、人のそしり 又幾そ、此事更々申へからすとそいはれける、昔殷紂の 西伯をとらへたりけるに、大円閎夏のともから善馬以下たか らを奉てゆりにけり、これはそれにもよらさりけれは、其妻申 かねて返にけり、其後検非違所書生を実検使に指遣 はすによりて、基衡力をよはす泣々季春并に子息舎弟 等五人か頸を切てけり、さてこそ国司しつまりにけれ、国 のもの共いひけるは、季春か命を助んために、国司に送る 所の物一万両の金をさきとして多の財なり、殆当国の/k129
一任の土貢にも勝れたり、是を見いれ給はす、女にもかたさ らすして、遂にためしを立給へる国司の憲法、たとへを不知 とそほめののしりける、かかりけれは国併らなひき随て、思さ まに行ひけり、吏務の感応前々の国司よりも、こよなう をもかりけり、後に君聞食て、いみしく御感有けるとそ、 昔秦昭王の時孟嘗君重き咎ありて、死罪にあた るへかりけるに、其后幸姫ときこえ給しに、狐白裘を奉 て命いきにけり、ころすへき程のをかしあらんには、なにの 賂にもなしかはふけるへき、ぬしほろひなは、其財国の外に出 へからす、皆王の心なるへきに、后の欲のふかく、すなほなら/k130
ぬ心のほとの露れて、争か国王の后宮とは成給けるそ とあやし、彼義家朝臣の陸奥守に下向の時、子細有て 家衡武衡を責けるに、舎弟義光の郎等季方か 敵の館の中によはれて、引出物金を不取して返けるに 詞にはそこたちほろひ給なは、是皆我等か物也、いそかし く給はるに不及とそ云ける、 実にや季春か間事徒事なれとも、一のおかしき事 有けり、国司師綱被下ける時、山林房覚遊と云猿楽 共にくたれりけり、本は南都の悪僧にて有けるとて、 武勇を事とし、太刀を身にはなたさりけり、合戦の日/k131
宗と是たのみたりけれは、物具して打出たるに、季春かつ はものすすみよるを見て、いまた一矢もいぬさきに、鞭をあ けて後の山に逃入にけり、事はててつれなく帰来ける に、国司是を嘲て、山林房の覚遊を改て、先陣房の 覚了とそ付たりける、人々わらひにけり、是を聞に恵心僧 都の往生要集に人の定相なき喩を引て、陣の内の いくさの、つるきにのそみてかへり、水上の月の、波の動静 ゆ如随と書給へるこそ、理なりけれと思出らるれ、彼僧もさ すかよも始よりさしもてけんとまては、思はさりけんかし、抑 季春国民たりなから、国司奉射事、罪科既に違勅/k132
の者なり、なためゆるさるへき故なけれは、国司の清廉ま さしく章条のさす所也、/k133