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十訓抄 第七 思慮を専らにすべき事
7の27 近ごろ、唐に徽宗と申す帝おはしけり。・・・
校訂本文
近ごろ、唐1)に徽宗と申す帝おはしけり。この国の鳥羽院2)の御時なとにぞありける。
かの帝の御心、愚かにして、道士のいふことにつきて、仏記を失はれけり。そののち、国のかため、ややおとろへて、人の心荒れゆく。商人(あきびと)といふ者、都の外にて、物を商ふ習ひなるを、帝、財(たから)を重くして、商人を王宮に召し3)入れて、財を売りあはせ給ふ。商人、思えず帝に近づき奉りて、御事を承りける。 利にふけり給へる御心を、おのづから悟りえぬ。
都をはなれて鶏丹4)といふ国あり。金多くあるによりて、大金5)と名づく。日本にとりては陸奥(みち)の国などをいふやう、おほやけに金を奉る国あり。そのところに王あり。心猛り、はかりごと賢し。商人、かれに行きて、帝の御心愚かにて、財にふけり給ふありさまを語る。
そののち、かの王、謀反をおこさむといふ心、つきにけり。大金へ下るほどは三十日ばかりの道なり。かかれど、これは大道にて、国をめぐりて行く遠きなり6)。深山はげしき峰をへだてて行くには、七八日ばかりに行くとかや。道は近けれど、虎狼多くて、人通はず。
その道の辺(ほとり)に、「千両の松原」といふところあり、昔、大福長者、そのところに住みて、金千両を埋めり。このゆゑに、かくのごとく名づけたり。大金の王、ひそかに商人らを語りて、はかりごとをめぐらして、金を多く持たせて、帝に奉らしむ。帝、「これはいかなる金ぞ」と尋ね給へば、「大金よりこなたに、『千両の松原』といふところ侍り。『昔、長者の、金を埋みたりけり』といひ伝へたり。これにまかりて、試みに掘るに、おのづから得たり」と申す。
帝、感じ給ひて、「なほなほ、捜し求めて、奉るべし」と仰す。仰せにしたがひ、重ねて参らす。帝、飽き給はず。大金の王に仰せて、かの金を掘らしむ。この王、もとより勢ある者なれば、多く人を引き具して、金掘らむがために、さがしき峰を平らげ、繁き山を切り払ひて、大道のごとくになしつ。
そののち、はかりごちて、大金の王、謀反をおこしたるよし、披露をなす。帝、怒りて、多くの兵をつかはす。おのおの良き道を知らず。大道より行き向ふ。道に出でて二十日ばかり過ぎて、都に兵少なき時をはからひて、大金の王、兵をあひ具して、今作れる道よりちがひて、王城に乱れ入りて、御門を取り奉りて、大金へ帰りぬ。
そののち、諸国みな大金にしたがひて、調物(みつきもの)をささげて、済物を弁す。かの帝失せ給ひてのち、御子の世になりて、大金と戦ふあひだに、もとより心猛き国なるうへに、この時勢ひまさりて、え討ちしたがへず。
三百六十の国、百七十ばかりは大金に討ち取られて、残り百九十を帝知らせ給ふ。五台山7)・長安城などいふ名所、かの大金に討ち取られたり。
これによて、今この代の御門は、都におはしまさで、府と云ふ、明州より三日ばかりいたるところの、山中に居給へば、御門は田舎に住み給ふことはなけれども、府に居給ふこと、力なきゆゑなり。
日本の府、二所にあり。筑紫と陸奥国とに、鎮守府・大宰府とてあり。唐土(もろこし)には、かやうの府、国々にあり。今、住み給ふところも、その一つなり。蜀江とて「錦洗ふ」と詩歌作るところあり。日本、墨俣(すのまた)などのやうに、広くいかめしく、人も通はぬところにて、その江を境ひて、大金には領ずるとかや。
かかる世なれば、学問などする人は数のほかにて、弓箭にたづさはるものを帝も召し使ひ、官位もゆるさるなれば、大臣公卿も、胡服といひて、我が国の輩の直垂のやうなる物を着て、山中なれば、馬にうち乗て、うるはしき粧ひにもあらず。王宮のありさま、昔の礼儀にもかはりて、あさましくなれりと。
しかのみならず、上古を聞くにも、趙高は二世の代を奪はんと思ひ立ちけるに、鹿を指して、「馬」とて奉りて、身の感応のほどを知りにけり。勾践は呉王のいましめを許(ゆ)りて、会稽の恥を雪がむがために、偽りて、「よくしたがへるよしを見えん」とて、その尿(ゆばり)を飲めりけり。
さまこそ変れども、人をはかりみる思ひはかりなり。両帝、愚かにして、かの心のうちを悟り給はず。つひに亡び給ひにけり。
おほよそ、人をはかり、たぶろかす習ひ、漢家・日域、そのためし少なからず。かるがゆゑに、楽府には、「君をして蜂を取らしむとも、君取ることなかれ」ともいさめ、あるひは、「ただ、はかるべからざるは、人間の笑(え)めるは、これ、怒れるならんといふことを」ともいへり8)。よくよく慎しむべし。
これらはさておきつ。世の常にある人の、いみじく手づつに、心づきなく見ゆるは、不覚に思慮なきものを、人前に取り出づることは、ことかくとも、すまじきことぞかし。さしあたりて、人なきときは、よくよく教へ戒めて、あるべきやう言ひ知らせて、取り出だせるに、その上なほ、あやまちをも僻事(ひがごと)をもし出づるは、「さ思ひつること」とて、いふかひなければ、さてこそあれ、それを内にては言ひも教へおかで、人前にて声を立て、さいなみ、腹立つこそ、人目見苦しく、すべてその日のこともさむる心地すれ。それに従者もあひそへて、つきづきしくのべしじめ、あつかひをるころ、主に劣らずにくけれ。
「客人の前には、犬をだにも、いさかふまじ」とこそ、文にも見えたれ。まして、人を勘当し、興をさまさむこと、あるべきにあらず。かやうのことを見るには、よそにても、汗あふること多かり。
人々寄合ひて、さるべき遊びなどせむには、たとひ身にとりて、やすからず、口惜しきことにあひたりとも、かまへて、その日のさはりあらせじとはからふべきなり。「その人のありて、しかしかの折、ことさめにき」と言はるる、口惜しきことなり。
しかれば、行かぬ先よりはからひ、悪しかるべきところへは、さし出でぬ9)にはしかじ。もし悪しくはからひて、まじり居なんのちは、おぼろげならぬ身の、いたづらになるべきほどの傷なるべくは10)、ことなきさまに言ひなし、たはぶれにもてなして、おとなしかるべきなり。いはんや、わが使はん人の、あやしからんために、今せせがみ、さいなむこと、いとど見苦しかるべし。
かやうのかたは、福原大相国禅門11)の若(わか)がみ、いみじかりける人なり。折悪しく12)にがにがしきことなれども、その主のたはぶれと思ひて、しつるをば、かれがとぶらひに、をかしからぬゑをも笑ひ、いかなる誤(あやま)りをし、物をうち散らし、あさましきわざをしたれとも、「いふかひなし」とて、あらき声をも立てず、冬寒きころは、小侍ども、わが衣の裾の下に臥せて、つとめては、かれらが朝寝(あさい)13)したれば、やをら抜き出でて、思ふばかり寝させけり。
召仕にも及ばぬ末の者なれども、それがかたざまの者の見所にては、人数なる由をもてなし給ひければ、いみじき面目にて、心にしみて「うれし」と思ひけり。かやうの情けにて、ありとあるたぐひ、思ひつきけり。
人の心を感ぜしむとはこれなり。
翻刻
卅一近頃唐に徽宗と申帝おはしけり、此国の鳥羽院 の御時なとにそありける、彼帝の御心愚にして、道 士の云事に付て仏記を失はれけり、其後国のかた めややおとろへて人の心あれゆく、あき人と云者都の外に て物をあきなふ習なるを、御門たからを重くしてあ き人を王宮に古入て財をうりあはせ給ふ、あき人お ほえす御門に近つきたてまつりて、御事を承りける、 利にふけり給へる御心を、おのつから悟りえぬ都を はなれて鶏丹と云国あり、金多あるに依て大金と 名く、日本にとりてはみちの国なとを云様おほやけに/k159
金を奉る国あり、其所に王あり、心たけりはかりこ と賢し、あき人彼に行て、御門の御心愚にて財にふけ り給有様を語る、其後彼王謀反ををこさむといふ 心付にけり、大金へくたるほとは三十日はかりの道也、かか れと是は大道にて国を廻りて行く遠也深山はけ しき峯をへたてて行には、七八日斗に行とかや、道は 近けれと虎狼多くて人不通、其道の辺に千両の松 原と云所あり、昔大福長者其所に住て、金千両を埋 り、此故に如此名付たり、大金の王ひそかに商人等を 語て、はかりことを廻て、金を多く持せて御門に奉 らしむ、御門是はいかなる金そと尋給へは、大金より/k160
こなたに千両の松原と云所侍り、昔長者の金を埋み たりけりと云伝へたり、是に罷て試にほるに自得 たりと申、御門感し給て、なをなを捜求て奉るへしと 仰す、随仰にかさねてまいらす、御門あきたまはす大 金の王に仰て、彼金を掘しむ、此王もとより勢ある ものなれは、多人を引具め金ほらむかために、さかしき 峯を平らけ、しけき山を切払ひて、大道の如くになし つ、其後はかりこちて大金の王謀反を発したるよし 披露をなす、御門いかりて多の兵を遣す、各吉道を 不知、大道より行向ふ、道に出て廿日はかり過て都 に兵少き時をはからひて、大金の王兵を相具て今/k161
作れる道よりちかひて王城に乱れ入て、御門をとり奉 て、大金へ帰ぬ、其後諸国皆大金に随て調物を ささけて済物を弁す彼御門失給て後、御子の世に 成て、大金とたたかふ間に、本より心たけき国なる上に、 此時勢ほひまさりて、えうちしたかへす三百六十の 国、百七十はかりは大金に打取て、残り百九十を御門 知せ給ふ、五臺山の長安城なと云名所、彼大金に打 取れたり、是によて今此代の御門は都におはしまさて、 府と云ふ明州より三日はかりいたる所の山中に居 給へは、御門はゐなかにすみ給ふ事はなけれとも、府に 居給事力なき故也、日本の府二所にあり筑紫と/k162
陸奥国とに鎮守府大宰府とてあり、もろこしに は、かやうの府国々にあり、今栖給所も其一也蜀江 とて錦あらふと詩哥作る所あり、日本すのまたな とのやうに、広くいかめしく人もかよはぬ所にて、其江を 境て大金には領するとかや、かかる世なれは学問なとす る人は数の外にて、弓箭に携はるものを御門も召 つかひ官位もゆるさるなれは、大臣公卿も胡服と云て、我 国の輩の直垂のやうなる物をきて、山中なれは馬にう ち乗て、うるはしき粧にもあらす、王宮の有様昔の 礼儀にもかはかりて、あさましくなれりと、しかのみなら す上古を聞にも趙高は二世の代をうははんと思立/k163
けるに、鹿をさして馬とて奉て、身の感応の程を知 にけり勾践は呉王のいましめをゆりて会稽の恥 を雪かために、偽りてよく随へるよしを見えんとて、 其ゆはりをのめりけり、様こそかはれとも、人をはかりみる 思はかり也、両帝愚にして、彼心のうちを悟り給は す、終にほろひ給にけり、おほよそ人をはかりたふろか す習ひ、漢家日域其ためしすくなからす、かるかゆへに 楽府には、君をしてはちをとらしむとも、君とる事な かれともいさめ、或はたたはかるへからさるは人間のえめ るは是いかれるならんと云事をとも立り、よくよくつつしむ へし、此等はさてをきつ世のつねにある人のいみしく手/k164
つつに心つきなくみゆるは、不覚に思慮なきものを、人 まへに取出る事は、ことかくとも、すましき事そかし、さ しあたりて、人なきときは、よくよく教へいましめて有へ き様云知せてとり出せるに、其上なをあやまちをも 僻事をもし出つるは、さ思つる事とて云かひなけれは、 さてこそあれ、其を内にては云も教をかて、人前にて 声を立てさいなみ腹立こそ、人目見苦くすへて其 日の事もさむるここ地すれ、其に従者もあひそへて、つきつき しくのへししめあつかひおる事、主にをとらす、にくけれ客 人の前には犬をたにもいさかふましとこそ、文にも見えた れ、まして人をかんたうし興をさまさむ事あるへきに/k165
あらす、かやうの事を見にはよそにても汗あふる事多 かり、人々寄合てさるへき遊ひなとせむには、たとひ身に 取て安からす口惜き事にあひたりとも、構て其日の さはりあらせしとはからふへき也、其人の有て、しかしか の折事さめにきと云るる、口惜き事也、しかれは行 ぬさきよりはからひあしかるへき所へは指出たには しかし、若悪くはからひてましり居なん後は、おほろ けならぬ身の徒に成へき程のきすなるへし、くは事 なきさまに云なしたはふれにもてなして、をとなしかる へき也、況や我かつかはん人の、あやしからんために今 せせかみさいなむ事、いとと見苦しかるへし、か/k166
やうの方は、福原大相国禅門のわかかみいみしかり ける人也、おくあしくにかにかしき事なれとも、其主のたは ふれと思ひてしつるをは、彼かとふらひにおかしからぬ ゑをもわらひ、いかなるあやまりをし、物を打ちらし、あ さましきわさをしたれとも、云かひなしとて、あらき声を も立す、冬寒き頃は、小侍とも我が衣のすその下にふせ て、つとめては彼等かさゐしたれはやをらぬき出て、思 はかりねさせけり、召仕にも及はぬ末の者なれとも、それ か方さまのものの見所にては、人数なるよしをもてな し給けれは、いみしき面目にて心にしみてうれしと 思けり、かやうの情にて有とある類思付けり、人の/k167
心を感しむとは是也、又賢人のもとにも不覚なるもの/k168