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発心集
第五第9話(56) 成信・重家、同時に出家する事
校訂本文
兵部卿致平親王1)の御子成信中将2)と、堀川右大臣3)の子にて重家の少将4)と聞こえける人、時にとり世にとりて、たぐひなき若人(わかひと)なりければ、照る中将、光る少将とて、同じさまにぞ言はれ給ひける。この二人、同じ時に心を発して、世を背かんことを言ひ合はせ給ふ。心ざしは一つなれど、発心のおこりは異りけり。
少将は、時の一の人5)の重くわづらひ給ひけるに、そのかげに隠れたる人の、憂へあるさまを受けとり給ふべき方の、御ゆかりの人の気色(けしき)などを見給ひけるに、「惜しむもそねむも、心憂き習ひなり」と思しけるより、おのづから厭ふこととなりにけり。
中将は斉信6)・公任7)・俊賢8)・行成9)など聞こえて、いみじかりける人々、陣の座にて、朝のさだめども、折り折り才覚を吐きて、いみじかりけるを立ち聞きて、「司(つかさ)・位(くらゐ)は、『高く昇らん』と思はば、身の恥を知らぬにこそありけれ。この人々には、いかにも及ぶべくもあらず。さて、世にありては、いかにかはせん。かの世を願ふべかりけり」と思ひ取り給ひけるなり。
この二人、その日と定めて、「三井寺の慶祚阿闍梨のもとへ行き会はん」と契り給へり。重家の君、遅く見えければ、夜に入るまで待ちかねて、「おのづから思ひわづらふことのあるなめり」と本意(ほい)なく思しながら、一人、阿闍梨の室(しつ)に至りて、「頭(かしら)おろさん」と聞こゆ。
阿闍梨、「あたらしき御様なるのみにあらず、名高くおはするの身なれば、便なく侍りなむ」とて、いなび申しければ、あからさまに立ち出づる様にて、みづから髪を切りて、「かくなむまかりなりたる」とありける時ぞ、ゆひかひなくて、許し聞こえける。
かくて、暁、帰らんとし給ひける時、露にそぼぬれつつ、重家少将おはしたり。「いかに、遅は。夜更くるまで待ち奉りしかど、『もし、ためらひ給ふことなどの侍るか』とて、先になんつかまつりたる」とありければ、「さやうに契り聞こえて、いかでかは日をばたがへ侍らん。おとど10)に暇乞ひ奉らでは、罪得ぬべく思ひ給へて、ついでをはからひ侍りしかば、『日をたがへじ』とて、夜べ元結(もとゆひ)をば切り侍り」とてなむ、見せ給ひける。
中将は二十三、少将は二十五とぞ。さしもすぐれ、さるべき人だにもあたらしかるべきを、かく同じ心にて、形をやつし給ひつれば、阿闍梨、涙を落しつつ、かつは惜しみ、かつはあはれみけり。
この少将、まづ元結を切りて、やはらかぶりをして、暗きまぎれに、父の大臣に暇を乞ひ給ひければ、おのづからその気色(きしよく)やあらはれたりけん、「いかに言ふとも、とまるべき様にも見えざりしかば、えとどめずなりにき」とぞ、のたまひける。
また、多武峰の入道高光少将11)は、兄の一条の摂政12)の、ことにふれつつあやまり多くおはしけるを見給ひて、「世にあるは恥がましきことにこそ」とて、これより心を発し給ひけるとなむ。
人の賢きにつけても、愚なるにつけても、まことの道を願ふ頼りとなりにけんこそ、げにあらまほしく侍れ。
翻刻
成信重家同時出家事 兵部卿致平親王の御子成信中将と堀川右大臣 の子にて重家の少将ときこえける人時にとり世にと/n19r
りて。類なき若人なりければ。てる中将。ひかる少将。とて 同しさまにそいはれ給ひける。此二人をなじ時に心を発 して世を背かん事をいひ合せ給ふ。心さしは一なれと 発心のをこりは異なりけり。少将は時の一の人のおもく わづらひ給ひけるに。そのかげにかくれたる人の憂ある さまをうけとり給ふべき方の御ゆかりの人のけしき などを見給ひけるに。をしむもそねむも心うき習なり とおぼしけるより。をのづからいとふ事となりにけり。 中将は斉信。公任。俊賢。行成など聞へていみじかり ける人々陣の座にて朝のさだめども折々才覚をはき/n19l
て。いみじかりけるをたちききて。司位は高く昇らんと 思はば。身の恥を知ぬにこそありけれ。此人々にはいかにも 及ふべくもあらず。さて世に有ては何にかはせん彼世を 願ふべかりけりと思とり給ける也此二人その日と 定めて三井寺の慶祚阿闍梨のもとへ行あはんと契 給へり。重家の君おそく見へければ。夜に入るまで待か ねて。をのづから思わづらふ事のあるなめりと本意な くおぼしながら。独阿闍梨の室にいたりて。かしらを ろさんと聞ゆ阿闍梨あたらしき御様なるのみに非す 名高くをはするのみなれば。びんなく侍りなむとて。いなひ/n20r
申ければ白地に立出る様にてみづから髪をきりてか くなむ罷成たるとありける時ぞ云甲斐なくて許き こへける。かくて暁帰らんとし給ひける時。露にそほぬれ つつ重家少将をはしたり。いかに遅は夜ふくるまで待た てまつりしかと。若ためらひ給ふ事などの侍かとて。 さきになん仕りたると有ければ。さやうに契り聞へてい かでかは日をばたがへ侍らん。をとどに暇乞奉らでは罪 ゑぬべく思給て。つゐでをはからひ侍しかば。日をたがへし とて夜部もとゆひをは切侍りとてなむ見せ給ひける 中将は廿三。少将は廿五とぞ。さしもすぐれ。さるべき人だに/n20l
も。あたらしかるべきを。かく同し心にて形をやつし給ひつ れば阿闍梨なみだを落しつつ且はおしみ且は哀みけり。此 少将先もとゆひをきりて。やはらかぶりをして。くらきま ぎれに父の大臣に暇を乞給ひければ。をのづから其気色 やあらはれたりけん。いかに云ともとまるべき様にも見へ ざりしかば。ゑとどめずなりにきとその給ひける。又多武 峯の入道高光少将は兄の一条の摂政の事にふれつつあ やまり多くおはしけるを見給ひて。世にあるは恥がましき 事にこそとて自是心を発し給ひけるとなむ。人のかし こきにつけても。愚なるにつけても実の道をねがふたより/n21r
と成にけんこそ。げにあらまほしく侍れ/n21l