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発心集

第五第3話(50) 母、女を妬み、手の指、蛇に成る事

校訂本文

いづれの国とか、たしかに聞き侍りしかど、忘れにけり。ある所に、身は盛りにて、おとなしき妻にあひ具したる男ありけり。この妻、先(さき)の男の子をなむ一人持ちたりける。

いかが思ひけん、男に言ふやう、「われに暇たべ。この内に一間あらん座敷に居、のどかに念仏なんどして居たらん。さて外の人を語らはんよりは、これにある若き人をあひ具して、世の中のこと沙汰せさせよ。さらにうとからん人よりは、わがためにも良からん。今は年た かくなりて、かやうのありさま、ことにふれて本意(ほい)ならず」と言ひければ、男も驚き思へり。娘もあるまじきやうに言ひけれど、このことなほざりならず。

ともすれば、まめやかにうちくどきつつ、言ふこと、たびたびになりぬ。「さほど思はるることならば、承りぬ」とて、言ふがごとくして、奥の方(かた)に据ゑて、男はままむすめなむ、あひ具して住みける。

かくて、時々はさしのぞきつつ、「何事か」など言ふ。ことにふれて、妻も男もおろかならぬやうにて、年月を送るほどに、ある時、男、ものへいたる間に、この妻、母の方に行きて、のどかに物語などするほどに、母、いみじうもの思へる気色なるを、心得ず思えて、「われには、何事をかは、隔て給ふべき。思されんことはのたまひあはせよ」と言ふ。「さらに思ふことなし。ただ、このほど、乱り心地の悪しくて」など言ひまぎらかす様、ただならず怪しければ、なほなほ強ひて問ふ。

その時に、母、言ふやう、「まことには、何事をか隠し申さん。よに心憂きことのありけり。この家の内のありさまは、心よりおこりて申し進めしことぞかし。されば、誰もさらさら恨み申すべきこともなし。しかあるを、夜(よる)の寝覚めなどに、傍らの寂しきにも、ちと心のはたらく時もあり。また、昼さしのぞかるる折もあり。人の振舞ひになりたるこそ思はざりしことかなれど、胸の中騒ぐを、『これ、人の科(とが)かは。あな、おろかの身かな』と思ひ返しつつ過ぐれど、なほ、このことの深き罪となるにや。あさましきことなむある」とて、左(ひだり)・右(みぎ)1)の手をさし出でたるを見るに、大指二つながら蛇(くちなは)になりて、目もめづらかに、舌さし出でてひろひろとす。

娘、これを見るに、目も暗れ心も惑ひぬ。また、ことも言はず、髪おろして尼になりにけり。男、帰り来て、これを見て、また法師になりぬ。もとの妻もさまを変へ、尼になりて、三人ながら同じ様に行ひてなむ過ぎける。朝夕言ひ悲しみければ、蛇もやうやうもとの指になりにけり。後には、母は京に乞食し歩(あり)きけるとかや。「まさしく見し」とて、古き人の語りしは、近き世のことにこそ。

女の習ひ、人をそねみ、物をねたむ心により、多くは罪深き報ひを得るなり。なかなか、かやうにあらはれぬることは、悔い返して、罪滅ぶる方もありぬべし。つれなく心にのみ思ひくづほれて、一生を暮らせる人の、強く地獄の業を作り固めつるこそ、いと心憂く侍れ。

いかにもいかにも、心の師となりて2)、かつは前の世の報ひと思ひなし、かつは夢の中のすさみとも思ひ消して、一念なりとも悔ゆる心を発(おこ)すべきなり。ある論には、「人、もし重き罪を作れども、いささかも悔ゆる心のあれば、定業とならず」とこそ侍るなれ。

翻刻

  母妬女手指成蛇事
何ノ国トカタシカニキキ侍シカド忘ニケリ。或所ニ身ハ盛
ニテヲトナシキ妻ニアヒグシタル男有ケリ。此妻サキ
ノ男ノ子ヲナム独モチタリケル。イカカ思ヒケン男ニ/n9r
云様。我ニ暇タベ此内ニ一間アラン座敷ニ居ノドカニ念
仏ナントシテヰタラン。サテ外ノ人ヲカタラハンヨリハ。コ
レニアル若キ人ヲ相具シテ。世ノ中ノ事沙汰セサセヨ。
サラニウトカラン人ヨリハ我為ニモヨカラン。今ハ年タ
カク成テカヤウノアリサマ事ニフレテ本意ナラズト云
ケレバ。男モヲドロキ思ヘリ。ムスメモアルマジキ様ニ云ケ
レト此事ナヲザリナラズ。トモスレバマメヤカニ打クドキツツ
云事度々ニナリヌ。サ程思ハルル事ナラバ承リヌトテ。
云ガゴトクシテ奥ノカタニスヱテ。男ハママムスメナム相
具シテ住ケル。カクテトキドキハサシノゾキツツ何事カ/n9l
ナドイフ。事ニフレテ妻モ男モヲロカナラヌヤウニテ
年月ヲ送ル程ニ有時ヲトコ物ヘイタル間ニ此妻母
ノカタニ行テノドカニ物語ナドスル程ニ母イミジウ
物思ヘルケシキナルヲ心得ズオボヘテ我ニハ何事ヲカ
ハ隔テ給フベキ。オボサレン事ハノ給ヒアハセヨトイフ。サ
ラニ思事ナシ。タダ此程ミダリ心地ノアシクテナド云ヒ。
マキラカス様タダナラズアヤシケレバ。猶々シヰテトフ。
其時ニ母云ヤウ誠ニハ何事ヲカ隠シ申サン。ヨニ心ウキ
事ノ有ケリ。此家ノ内ノアリ様ハ心ヨリヲコリテ申ススメ
シ事ゾカシ。サレバタレモサラサラウラミ申ベキ事モナシ。/n10r
シカアルヲヨルノ寝覚ナドニ。カタハラノサビシキニモ。チ
ト心ノハタラク時モ有。又昼サシノゾカルル折モアリ。人
ノフルマヒニナリタルコソ思ハザリシコトカナレド。胸ノ中
サハグヲ是人ノ科カハ。アナヲロカノ身カナト思ヒカヘ
シツツ過レド。ナヲ此事ノ深キ罪トナルニヤ。アサマシ
キ事ナムアルトテ。左リ右リノ手ヲサシイテタルヲ
見ルニ。大指フタツナガラ蛇ニナリテ目モメヅラカニ舌サ
シ出テヒロヒロトス。ムスメ是ヲミルニ目モクレ心モマド
ヒヌ。又事モイハズ髪ヲロシテ尼ニナリニケリ。男カヘリ
来テ是ヲ見テ又法師ニナリヌ。モトノ妻モサマヲカ/n10l
ヘ尼ニ成テ三人ナガラ同シ様ニ行ナヒテナム過ケル。
朝夕イヒ悲ミケレバ蛇モヤウヤウモトノ指ニ成ニケリ。後
ニハ母ハ京ニ乞食シアリキケルトカヤ。マサシク見シト
テフルキ人ノ語リシハ近世ノコトニコソ。女ノナラヒ人ヲ
ソネミ物ヲネタム心ニヨリ。多クハ罪深キ報ヲ得ナリ。中
中カ様ニアラハレヌル事ハ。クヒカヘシテ罪ホロブル方モアリ
ヌベシ。ツレナク心ニノミ思ヒクヅヲレテ。一生ヲ暮セル人ノ
ツヨク地獄ノ業ヲ作リカタメツルコソイト心ウク侍レ。
イカニモイカニモ心ノ師トナリテ。カツハ前ノ世ノムクヒト思ヒ
ナシ。カツハ夢ノ中ノスサミトモ思ヒケシテ一念ナリ共/n11r
クユル心ヲ発スベキ也。或論ニハ人モシ重キ罪ヲツクレ
ドモ聊モクユル心ノアレバ定業トナラズトコソ侍ナレ/n11l
1)
底本「左り右り」。「右り」の「り」は衍字とみて削除。
2)
参照。
text/hosshinju/h_hosshinju5-03.txt · 最終更新: 2017/05/31 00:00 by Satoshi Nakagawa
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