Recent changes RSS feed

発心集

第四第5話(42) 肥州の僧、妻、魔と為る事 悪縁を恐るべき事

校訂本文

中ごろ、肥後国に僧ありけり。もとは清かりけるを、年半ばたけて後、妻(め)をなんまうけたりける。かかれど、なほ後世のことを思ひ放たず、理観を心にかけつつ、その勤めの為に別に屋(いゑ)を作りて、かしこを観念の所と定めて、年ごろ勤め行ひけり。

この妻、男のため心ざし深く、ことにふれてねんごろなりけれど、いかが思ひけん、病を受けたりける時、この妻にうちとけず、あひ知れる僧を呼びて、忍び語らふやう、「もし、限りならん時は、あなかしこ、あなかしこ、妻の方に告げ給ふな。ことさら、少し思ふゆゑあり」と言ひければ、その心得てのみあつかふほどに、いともわづらはず、終はり思ふさまにめでたくして、西に向ひて息絶えにけり。

さてしも、あるべきならねば、とばかりありて、妻にこのことを告ぐ。すなはち、驚きまどひ、をびたたしく手をたたきて、眼をいからかし、もだへ迷ひて絶え入りぬ。

人おぢて、近付きも寄らざりける間に、一時ばかりありて、世に恐ろしう、声のある限りをめき叫びて言ふやう、「われ、狗留孫仏の時より、こやつが菩提を妨げんために、世々生々(せぜしやうじやう)に妻となり、男となり、さまざま親しみたばかりて、今まで本意(ほい)のごとく随ひ付きもたりつるを、今日すでに逃がしつる。ねたきわざかな」と言ひて、歯をくひしばり、垣壁(かきかべ)を叩く。人、いとど恐れをののきて、みな這ひ隠れたる間に、いづちともなく失せにけり。その後、つひに行方(ゆくかた)知らずとなん。往生伝1)には、「康平の比」と註せり。

これ、一人が上にあらず。悪魔の、さりがたき人となりて、二世を妨ぐることは、誰も必ずあるべきことなり。かかれば2)、このことを心にかけつつ、親しき疎(うと)き分かず、善をすすむる人あらば、「仏菩薩こそ、さまざま形を変じて、人を化度し給へ。まし化身か、もしまた、その便りか」とむつましく思ひ、罪を作らせ、功徳を妨げて、執(しふ)を留めん人をば、世々生々の悪縁と恐れて、遠ざからんことを願ふべし。

おほかた、人の心は、野の草の風に随ふがごとし。縁によりてなびきやすし。誰かは、道心なき人といへど、仏に向ひ奉りて、掌(たなごころ)を合はせざる。いかなる智者かは、媚びたる形を見て、目を悦ばしめざる。

かの浄蔵貴所3)は日本第三の行人なれど、近江の守ながよが女(むすめ)に契りを結べり。久米の仙人は、通を得て、空を飛ありきけれど、下種(げす)女の、物洗ひける脛(はぎ)の白かりけるに欲を発(おこ)して、仙を退して、ただ人となりにけり。

今の世にも、手足の皮を剥ぎて、指を灯(とぼ)し、爪を砕き、さまざま、かたはをさへつけて仏道を行ふ人は、その発心のほど隠れなけれど、悪縁にあひて、妻子をまうくるためし多かり。われも人も凡夫なれば、ただ近付かぬにはしかぬなり。

翻刻

  肥州僧妻為魔事 可恐悪縁事
中比肥後国ニ僧アリケリ。本ハ清カリケルヲ。年半タ
ケテ後。メヲナンマウケタリケル。カカレドナヲ後世ノ事
ヲ思放タズ。理観ヲ心ニカケツツ。ソノ勤メノ為ニ別ニ
屋ヲツクリテ彼コヲ観念ノ所ト定メテ年比ツトメ
行ヒケリ。此妻男ノ為心サシ深ク事ニフレテネンゴロ
ナリケレド。イカカ思ヒケン病ヲ受タリケル時此妻/n11r
ニウチトケズ相知レル僧ヲヨビテ忍ビ語ラフヤウ若
限ナラン時ハ穴賢々々メノ方ニツケ給フナ。コトサラ
少シ思フ故アリト云ケレバ。ソノ心エテノミアツカフ程
ニ。イトモワヅラハズ終リ思フサマニ目出クシテ西ニ向テ
イキ絶ニケリ。サテシモアルベキナラネバ。トバカリアリ
テ妻ニ此事ヲツグ。即ヲトロキマドヒ。ヲビタタシク手
ヲタタキテ眼ヲイカラカシ。モダヘ迷ヒテ絶イリヌ。
人ヲヂテ近キモヨラザリケル間ニ一時計アリテ。世ニ
ヲソロシウ声ノアル限リヲメキサケビテ云様我狗留
孫仏ノ時ヨリ。此ヤツカ菩提ヲ妨ゲンタメニ世々生々/n12l(誤綴)
ニ妻トナリ男トナリ。サマザマシタシミタバカリテ。今マ
デ本意ノ如ク随ヒツキモタリツルヲ今日ステニ。ニ
ガシツル。ネタキワザ哉ト云テ。ハヲクヰシハリカキカ
ベヲタタク。人ヰトトヲソレヲノノキテ皆ハイカクレタ
ル間ニイヅチトモナク失ニケリ。其後ツヰニ行方シ
ラズトナン往生伝ニハ康平ノ比ト註セリ。是一人ガ
上ニアラズ悪魔ノサリガタキ人トナリテ二世ヲ妨
ル事ハタレモ必ズアルベキ事也。カレハ此事ヲ心ニカケ
ツツ。シタシキウトキワカズ善ヲススムル人アラバ仏菩
薩コソサマザマ形チヲ変ジテ人ヲ化度シ給ヘ若化/n13r(誤綴)
身カ。若又其便カトムツマシク思ヒツミヲ作ラセ功
徳ヲ妨テ執ヲ留メン人ヲハ。世々生々ノ悪縁ト恐レ
テ遠ザカラン事ヲ願フヘシ。大方人ノ心ハ野ノ草ノ風
ニ随ガ如シ縁ニヨリテナヒキヤスシ。タレカハ道心ナキ
人ト云ヘド仏ニ向ヒ奉リテ掌ヲ合セザル。イカナル
智者カハコビタル形ヲ見テ目ヲ悦バシメザル彼浄蔵
貴所ハ日本第三ノ行人ナレド。アフミノ守ナカヨガムス
メニ契ヲ結ベリ。久米ノ仙人ハ通ヲ得テ空ヲ飛アリキ
ケレド。ケス女ノ物アラヒケルハギノ白カリケルニ欲ヲ
発シテ仙ヲ退シテ只人トナリニケリ。今ノ世ニモ手足/n11l
ノ皮ヲハギテ指ヲトボシ。ツメヲクタキ。サマザマカタワヲ
サヘツケテ仏道ヲ行フ人ハ。ソノ発心ノホド隠ナケレド。
悪縁ニアヒテ妻子ヲマウクルタメシ多カリ。我モ人モ凡
夫ナレバタダ近ヅカヌニハシカヌ也/n12r
1)
『拾遺往生伝』
2)
底本「カレハ」。文意によって訂正。
text/hosshinju/h_hosshinju4-05.txt · 最終更新: 2017/05/20 20:56 by Satoshi Nakagawa
CC Attribution-Share Alike 4.0 International
Recent changes RSS feed Driven by DokuWiki

yatanavi.org ©2004-2017 Satoshi Nakagawa