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発心集
第三第12話(37) 松室の童子、成仏の事
校訂本文
奈良に、松室といふ所に、僧1)ありけり。官(くわん)なんどは、わざとならざりけれど、徳ありて、用ゐられたる者になんありける。
そこに、幼き児(ちご)の、ことにいとほしくするありけり。この児、朝夕、法華経を読み奉りければ、師、これをうけず。「幼き時は学文をこそせめ。いとげにげにしからず」など、いさめられて、一度は随(したが)ふやうなれど、ややもすれば、忍び忍びになんこれを読む。いかにも心ざし深きことと見て、後には誰も制せずなりにけり。
かかるほどに、十四五ばかりになりて、この児、いづちともなく失せぬ。師、大きに驚きて、至らぬくまもなく尋ね求むれど、さらになし。「物の霊なんど、取られたるなめり」と言ひて、泣く泣く、のちのことなんど弔(とぶら)ひてやみにけり。
その後、月ごろ経て、この房にある法師の、「薪取らん」とて、山深く入りたりけるに、木の上に、経読む声聞こゆ。怪しくて、これを見れば、失せにし児なり。あさましく思えて、「いかに、かくてはおはしますぞ。さしも歎き給ふものを」と言へば、「そのことなり。『さやうのことも聞こえん』とて、『逢ひ奉らん』と思へど、便り悪しきことになりて、えなん近付き奉らず。うれしく見え逢ひたり。『これへ、かまへておはしませ』と申せ」と言ひければ、走り帰りて、このよしを語る。
師、驚きて、すなはち来たる。児、語りていはく、「われ、読誦の仙人にまかりなりて侍るなり。日ごろも御恋しく思ひ奉りつれど、かやうにまかりなりて後は、聞くべき便りもなし。おほかた、人のあたりは、けがらはしく臭くて、耐ゆべくもあらねば、思ひながら、えなん詣でざりつる間、近うて見奉ることはえあるまじ」と言ひて、ともに涙を落しつつ、やや久しく語らふ2)。
かくて、帰りなんとする時、言ふやう、「三月十八日に竹生島といふ所にて、仙人集まりて、楽をすること侍るに、琵琶を弾くべきことの侍るが、え尋ね出だし侍らぬなり。貸し給ひなんや」と言ふ。「やすきことなり。いづくへか奉るべき」と言へば、「ここにて賜はらん」と言ひて、ともに去ぬ。すなはち、琵琶を送りたりけれど、その時は人もなし。ただ、木の本に置きてぞ帰りにける。
さて、この法師は、三月十七日に竹生島へ詣でたりけるに、十八日、暁の寝覚めに、はるかにえもいはれぬ楽の声聞こゆ。雲に響き、風に随ひて、世の常の楽にも似ず思えて、めでたかりければ、涙こぼれつつ聞き居たるほどに、やうやう近くなりて、楽の声止まりぬ。とばかりありて、縁(えん)に物を置く音のしければ、夜明けて、これを見るに、ありし琵琶なり。
師、不思議の思ひをなして、「これをわが物にせんことは憚りあり」とて、権現3)に奉る。香ばしき匂ひ、深くしみて、日ごろ経れど失せざりけるを、この琵琶、今にかの島にあり。うきたることにあらず。
翻刻
松室童子成仏事/n23l
奈良に松室と云所に僧ありけり官なんとはわさとなら さりけれど徳ありて用られたる者になんありける。そこに をさなき児のことにいとをしくするありけり此児朝夕 法華経をよみ奉りけれは。師是をうけず。をさなき時は学 文をこそせめ。いとげにげにしからずなど。いさめられて一度 は随やうなれど。ややもすれば忍々になん是をよむ。いかにも 心ざし深き事と見て後には誰も制せずなりにけり。かか る程に十四五ばかりになりて此児いつちともなくうせ ぬ。師大に驚て至らぬくまもなく尋求れど更になし物 の霊なんど取れたるなめりと云て。なくなくのちの事な/n24r
んと訪てやみにけり。其後月比へて此房にある法師の 薪とらんとて山深く入たりけるに木の上に経よむ声き こゆ。あやしくて是を見れば。失にし児なり。あさましく覚 へていかにかくてはをはしますそ。さしもなげき給ふ物を と云へはその事也さやうの事も聞へんとて逢奉らんと 思へど便あしき事になりて。ゑなん近づき奉らず。うれし く見へ逢たり。是へかまへてをはしませと申せと云ければ 走帰て此由を語る師驚て即来る児語て云く我 読誦の仙人に罷成て侍るなり。日比も御恋しく思奉り つれど。か様に罷成て後は聞べき便もなし。大方人の当りは/n24l
けがらはしくくさくて。たゆべくもあらねば。思ながらゑなんま うでざりつる間。近て見奉る事はゑあるまじと云て倶に 涙を落つつ良久く語らく。かくて帰なんとする時云や う三月十八日に竹生嶋と云処にて仙人集て楽をす る事侍るに琵琶を引べき事の侍るが。ゑ尋出し侍らぬ なり。かし給なんやと云。安事なり何へか奉へきと云へ は。ここにて給らんと云て倶に去ぬ。即ひわを送たりけれど。 その時は人もなし。たた木の本に置てそ帰りにける。さて此 法師は三月十七日に竹生嶋へ詣でたりけるに十八日暁の ね覚に遥にゑもいはれぬ楽の声きこゆ。雲にひひき風に随/n25r
ひて。よのつねの楽にも似ず覚て目出かりければ涙こほれつつ 聞居たる程に。やうやうちかくなりて楽のこゑとまりぬ。とは かり有りて。えんに物を置をとのしければ。夜あけて是を 見るに、ありし琵琶なり師不思儀の思をなして是を我 物にせん事は憚ありとて権現に奉る香ばしき匂深しみ て日比ふれどうせさりけるを此琵琶今に彼嶋にあり うきたる事に非す 発心集第三/n25l