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発心集

第二第10話(22) 橘大夫、発願往生の事

校訂本文

中ごろ、常磐橘大夫守助1)といふ者ありけり。年八十にあまりて、仏法を知らず。斎日といへども精進せず。法師を見れども貴む心なし。もし、教へ進むる人あれば、かへりてこれをあざむく。すべて、愚痴極れる人とぞ見ける。

しかるを、伊予国に知る所ありて下りける。ころは永長の秋、ことなる病(やまひ)もなくて、臨終正念にして往生せり。須磨の方より、紫の雲あらはれて、馨香(かうばしきか)充ち満ちて、めでたき瑞相あらたなりける。

これを見る人、あやしんで、その妻に、「いかなる勤めをかせし」と問ふ。妻がいはく、「心、もとより邪見にて、功徳作ることなし。ただし、一昨年(をととし)の六月(ろくぐわち)より、夕べごとに、不浄をかへりみず、衣服をととのへず、西に向うて、一枚ばかりなる文を読みて、掌を合はせて拝むことこそありしが」と言ふ。

その文を尋ね出だして、見るに、発願の文あり。その言葉にいはく、「弟子、敬つて、西方極楽化主阿弥陀如来・観音・勢至、諸々の聖衆を驚かして申す。われ、受けがたき人身を受けて、たまたま仏法に遇へりといへども、心、もとより愚痴にして、さらに勤め行ふことなし。いたづらに明かし暮らして、むなしく三途に帰りなんとす。しかるを、阿弥陀如来、われと縁深くおはしますに依つて、濁れる末の世の衆生を救はんがため、大願を発し給へることありき。その趣(おもむき)を尋ぬれば、『たとひ、四重五逆を作れる人なりとも、命終らん時、『わが国に生れん』と願ひ、『南無阿弥陀仏』と十度申さば、必ず迎へむ』と誓ひ給へり。今、この本願を頼むが故(ゆゑ)に、今日より後、命を限りにて、夕べごとに、西に向ひて、宝号を唱ふ。願はくは、今夜(こんや)まどろめる中にも、命尽きなんことあらば、これを終りの十念として、本願あやまたず、極楽へ迎へ給へ。たとひ、残りの命あつて、今宵過ぎたりとも、終り願ひのごとくならずして、弥陀を唱へずは、日ごろの念仏をもつて、終りの十念とせむ。われ、罪重しといへども、いまだ五逆を作らず。功徳少なしといへども、深く極楽を願ふ。すなはち、本願にそむくことなし。必ず引接(いんぜう)し給へ」と書けり。

これを見る人、涙を落して貴びけり。

そののち、あまねくこの文を書き取りて、信じ行ひて、証を見たる人多かりけり。

また、ある聖人、かやうに発願の文を読むことはなけれども、夜まどろめるほかには、時の変るごとに、最後の思ひをなして、十念を唱へつつ、こればかりを行として、往生をとげた りとなむ。

勤むるところは少なけれども、常に無常を思ひて、往生を心にかけむこと、要(よう)が中の要なり。「もし、人、心に忘れず極楽を思へば、命終る時、必ず生ず。喩へば、樹(うゑき)の曲れる方へ倒(たふ)るるがごとし」なんど言へり。

翻刻

  橘大夫発願往生事/n22l
中比常磐橘大夫守助ト云者アリケリ。年八十ニ
アマリテ仏法ヲ知ラス。斉日ト云ヘトモ精進セス。法師
ヲ見レドモ貴ム心ナシ。若教進ル人アレバ返テ是ヲ
アザムク。スベテ愚痴極レル人トゾ見ケル。而ヲ伊予国
ニ知所アリテ下ケル。比ハ永長ノ秋異ナル病モナクテ
臨終正念ニシテ往生セリ。須磨方ヨリ紫ノ雲アラ
ハレテ馨香充満テ目出度瑞相アラタ也ケル。是ヲ見
ル人アヤシムテ其妻ニ何ナル勤ヲカセシト問。妻カ云ク
心本ヨリ邪見ニテ功徳ツクル事ナシ。但ヲトトシノ六月
ヨリ夕コトニ不浄ヲカヘリミズ。衣服ヲトトノヘズ西ニ向/n23r
テ一枚バカリナル文ヲ読テ掌ヲ合セテヲカム事コソ
有シガト云。其文ヲ尋ネ出テ見ルニ。発願ノ文アリ。其
詞ニ云ク。弟子敬テ西方極楽化主阿弥陀如来
観音勢至諸ノ聖衆ヲ驚テ申ス。我受カタキ人身
ヲ受テ適仏法ニ遇ト云ヘドモ。心本ヨリ愚痴ニシテ
更ニ勤行事ナシ。徒ニ明シ暮シテ空ク三途ニ帰ナン
トス。然ルヲ阿弥陀如来我ト縁深クヲハシマスニ依
テ濁レル末ノ世ノ衆生ヲ救ハンガタメ。大願ヲ発シ
給ヘル事アリキ。其趣ヲ尋ヌレハ設四重五逆ヲ作
レル人ナリトモ命終ラン時我国ニ生レント願ヒ/n23l
南無阿弥陀仏ト十度申サハ必ス迎ヘムト誓給ヘリ。
今此本願ヲ憑ムカ故ニ。今日ヨリ後命ヲ限ニテ
夕コトニ西ニ向ヒテ宝号ヲトナフ。願ハ今夜マトロ
メル中ニモ命尽ナン事アラバ。此ヲ終ノ十念トシテ
本願アヤマタズ極楽ヘ迎ヘ給ヘ。設ヒ残ノ命アツテコ
ヨヒ過タリトモ。終リ願ノ如クナラズシテ弥陀ヲ唱ヘス
ハ日比ノ念仏ヲ以テ終ノ十念トセム。我罪重ト
イヘトモイマダ五逆ヲ作ラス。功徳少シトイヘドモ深ク
極楽ヲ願フ。則本願ニソムク事ナシ。必ス引接シ給ヘ
ト書リ。是ヲ見ル人涙ヲ落シテ貴ヒケリ。其後ア/n24r
マネク此ノ文ヲカキトリテ信シ行ヒテ証ヲ見タル
人多カリケリ。
又有聖人加様ニ発願ノ文ヲ読事ハナケレドモ。夜
マドロメル外ニハ。時ノカハルゴトニ最後ノ思ヒヲ成
テ十念ヲ唱ヘツツ此ハカリヲ行トシテ往生ヲトケタ
リトナム。勤ムル処ハ少ケレドモ。常ニ無常ヲ思テ往
生ヲ心ニカケム事要カ中要也。若人心ニワスレス極楽
ヲ思ヘバ。命ヲハル時必ス生ス。タトヘバ樹ノマカレル方ヘ
タフルルガ如シナムト云ヘリ/n24l
1)
橘守助
text/hosshinju/h_hosshinju2-10.txt · 最終更新: 2017/04/25 12:55 by Satoshi Nakagawa
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