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宇治拾遺物語

第118話(巻10・第5話)播磨守の子、サダユフガ事

播磨守子さだゆふが事

播磨守の子、サダユフガ事

今はむかし、播磨守きんゆきが子にさだゆふとて、五条わたりにありしものは、この比ある、あきむねと云ものの父なり。

そのさだゆふは、阿波守さとなりがともに阿波へくだりけるに、道にて死けり。そのさだゆふは、河内前司といひし人のるいにてぞありける。

その河内前司のもとに、あめまだらなる牛ありけり。その牛を人の借て、車かけて淀へやりけるに、ひづめのはしにて、牛飼あしくやりて、片輪を橋よりおとしたりけるに、ひかれて車の橋よりしたに落けるを、「車のおつる」と心えて、牛のふみひろごりてたてりければ、むながひきれて車は落てくだけにけり。牛は、一、橋のうへにとどまりてぞありける。人ものらぬ車なりければ、そこなはるる人もなかりけり。「ゑせ牛ならましかば、ひかれておちて、牛もそこなはれまし。いみじき牛の力かな」とて、そのへんの人いひほめける。

かくて、この牛をいたはりかふほどに、此牛いかにしてうせたるといふ事なくてうせにけり。「こはいかなる事ぞ」ともとめさはげどなし。「はなれていでたるか」とて、ちかくより遠くまで尋もとめさすれどもなければ、「いみじかりつる牛をうしなひつる」となげく程に、河内前司が夢にみるやう、このさだゆふがきたりければ、「これは海に落入て、死けるときく人は、いかにきたるにか」と、おもひおもひいであひたりければ、さだゆふがいふやう、「我はこのうしとらのすみにあり。それより日に一度、ひづめの橋のもとにまかりて、苦をうけ侍るなり。それに、おのれが罪のふかくて、身のきはめてをもく侍れば、乗物のたへずして、かちよりまかるがくるしきに、このあめまだらの御車、牛の力のつよくてのりて侍るに、いみじくもとめさせ給へば、いま五日ありて六日と申さん、巳の時斗には返したてまつらん。いたくなもとめたまひそ」とみてさめにけり。「かかる夢をこそみつれ」と、いひて過ぬ。

その夢みつるより六日と云、巳の時斗にそぞろに此牛のあゆみ入たりけるが、いみじく大事したりけるにて、くるしげに舌たれあせ水にてぞ入り来りける。「此ひづめの橋にて車落入、牛はとまりたりけるおりなんどに行あひて『力つよき牛かな』とみて、借て乗てありけるにやありけんと、思けるも、おそろしかりける」と、河内前司かたりしなり。

text/yomeiuji/uji118.1412677035.txt.gz · 最終更新: 2014/10/07 19:17 by Satoshi Nakagawa