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沙石集
巻1第3話(3) 出離神明の祈の事
校訂本文
三井寺1)の長吏、公顕僧正(こうけんそうじやう)と申ししは、顕密の明匠にて、道心ある人と聞こえければ、高野2)の明遍僧都、かの行業おぼつかなく思はれけるままに、善阿弥陀仏といふ遁世聖を語らひて、かの人の行儀を見せらる。
善阿、僧正の房へ参ず。高野檜笠(ひがさ)に脛高(はぎだか)なる黒衣着て、異様(ことやう)なりけれども、「しかしか」と申し入れたりければ、高野聖と聞きて、なつかしく思はれけるにや、額突(ひたひつき)したる褻居(けゐ)に呼び入れて、高野のこと、後世の物語なんど通夜(よもすがら)せられけり。
さて、その朝、浄衣(じやうえ)着、幣(へい)持ちて、一間なる所の帳かけたるに向ひて、所作せられければ、善阿、「思はずの作法かな」と見けり。三日がほど、変ることなし。
さて、事の体(てい)よくよく見て、「朝の御所作こそ、異様(ことやう)に見奉れ。いかなる御行にか」と申しければ、
「進みても申したく侍るに、問ひ給へるこそ本意なれ。わが身には、顕密の聖教を学びて、出離の要道を思ひはからふに、自力(じりき)弱く、智品(ちほん)浅し。勝縁の力を離れては、出離(しゆつり)の望遂げがたし。よつて、都の中の大小神祇は申すに及ばず。辺地辺国までも、聞き及ぶにしたがひて、日本国中の大小の諸神の御名を書き奉りて、この一間なる所に請じ置き奉りて、心経三十巻3)、神呪なんど誦(じゆ)して、法楽(ほふらく)に備へて、出離の道、偏(ほとへ)に和光の御方便を仰ぐほか、別の行業なし。
そのゆゑは、大聖(だいしやう)の方便、国により、機に随ひて定まれる準(じゆん)なし。『聖人は常の心なし。万人の心をもて心とす』と言ふがごとく、法身は定れる身なし。万物の身をもて身とす。肇論にいはく、『仏は、非天非人』と。ゆゑに能天能なり。しかれば、無相の法身、所具の十界、みな一智毘盧の全体なり。
天台の心ならば、性具(しやうぐ)の三千十界の依正(えしやう)、みな法身所具の万徳なれば、性徳の十界を修徳にあらはして、普現色身の力をもて、九界の迷情を度す。また密教の心ならば、四重曼荼羅は法身所具の十界なり。内証自性会の本質をうつして、外用大悲の利益をたる。顕密の意によりて、はかり知りぬ。法身地より十界の身を現じて、衆生を利益す。
妙体の上の妙用なれば、水を離れぬ波のごとし。真如をはなれたる縁起なし4)。宝蔵論いはく、『海の千波を湧かす、千波、すなはち海水なり」と。しかれば、西天上代の機には、仏菩薩の形を現じて、これを度す。わが国は、粟散辺地なり。剛強の衆生、因果を知らず。仏法を信ぜぬたぐひには、同体無縁の慈悲によりて、等流法身(ほうしん)の応用を垂れ、悪鬼・邪神の形を現じ、毒蛇・猛獣の身を示し、暴悪のやからを調伏して、仏法に入れ給ふ。
されば、他国有縁の身をのみ重くして、本朝相応の形を軽(かろ)しむべからず。わが朝は、神国として、大権、迹(あと)を垂れ給ふ。また、われらみながら5)、孫裔なり。気を同じくする因縁浅からず。このほかの本尊を尋ねば、かへりて感応隔たりぬべし。
よつて機感相応の和光の方便を仰ぎて、出離生死の要道を祈り申さんにはしかじ。金(こがね)をもて人畜の形を作る。形を見て金を忘るれば勝劣あり。金を見て形を忘るる時は、異(こと)なることなきがごとし。法身無相の金をもて、四重円壇十界随類の形を作る。形を忘れて体を信ぜば、いづれか法身の利益にあらざる。智門は高きを勝(すぐ)れたりとし、悲門は下れるを妙(たへ)なりとす。低(ひき)き人のたけ比べは、低きを勝ちとするかごとし。大悲の利益は等流の身、ことに劣機に近付きて、強剛の衆生を利する慈悲勝れたり。されば、『和光同塵こそ、諸仏の慈悲の極なれ』と信じて、かくのごとくの行儀、異様(ことやう)なれども、年久しくしつけ侍り」
と語らる。
善阿、「まことに尊(たと)き御意楽(ごいげう)なり」と随喜して、帰りて、僧都に申しければ、「智者なれば、『愚かの行業あらじ』と思ひつるにあはせて、いみじく思ひはからはれたり」とて、随喜の涙を流されけるとなん、古き遁世聖人、語り侍りき。
されば、智者大師6)の、摩訶止観を説きて、「止観とは、高尚の者は高尚し、卑劣の者は卑劣せん」とのたまへるがごとく、和光の垂迹をも、高尚の者は高尚すべきにこそ。密教の深き意は、十界みな無相法身の所現なれば、炎魔7)の身も、毘盧8)の形も、まことには、四種法身を備へ、五智無際智を具せり。その内証に入れば、炎魔鬼畜の身を改めずして、自性法身の心地(しんぢ)を開きぬべし。されば、古徳9)のいはく、「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は、凡下の一念を踰えず」。
また、三種の即身成仏とは、理具の成仏とは、人々もとこれ仏なり。我執によりて顕(あらは)れず。諸仏は顕徳の成仏をとげて、自在に利益を施し給ふ。加持の成仏とは、已成(いじやう)の仏の、三業の妙用を学びて10)、増上縁として我心に具足する。無尽の荘厳、恒沙の徳用を顕はすなり。信心まことありて、わが三業、仏の三業に相応する時は、行人即ち仏と成るなり。
村上11)の御宇のことにや、内裏にて五壇の法を修せられけるに、慈慧僧正12)は中壇の阿闍梨にておはしけるが、御門、ひそかに御覧じけるに、行法の中に不動になりて、本尊にすこしも違(たが)ひ給はず。寛朝僧正は降三世の阿闍梨にておはしけるが、ある時は本尊となり、ある時は僧正となりけり。御門、これを御覧じて、「不便の事かな。寛朝は妄念の起れるにこそ」と仰せられける。余の僧は、ただもとのごとし。経にいはく、「一切衆生は、皆如来蔵なり。普賢菩薩自体遍ぜる故に」と説きて、われらが全体法身なりといへども、差別は迷と悟とのゆゑなり。されば、不増不滅経には、「即ち此法身、五道に流転するを説きて衆生と名づく。即ち此法身、六度を修行するを名づけて菩薩と為す。即ち此法身、流を反し源を尽すを説きて、名づけて仏と為す」と言へり。今、垂迹を思ふに、「即ち此法身和光同塵、名づけて神明と為す」とこそ心得られて侍れ。
しかるに、本地垂迹その意同じけれども、機にのぞむ利益、暫く勝劣あるべし。わが国の利益は、垂跡の面(おもて)、なほすぐれておはしますをや。そのゆゑは、昔、役(えん)の行者13)、吉野の山上に行なはれけるに、釈迦の像、現じ給へるを、「この御形にては、この国の衆生は化(け)しがたかるべし。隠れさせ給へ」と申されければ、次に弥勒と御形現じ給ふ。「なほ、これもかなはじ」と申されける時、当時の蔵王権現とて、怖しげなる御形を現じ給ひける時、「これこそ、わが国の能化(のうけ)」と申しければ、今に跡を垂れ給へり。
釈尊、劫尽の時は、夜叉となりて、無道心の者を取り食らふて、人を勧めて道心を起さしめ給ふも、この心なり。行人の信心深くして、心を一つにし、慎み敬ふこと、まことある時、利益にあづかる。わが国の風儀、神明はあらたに賞罰あるゆゑに、信敬を厚くし、仏菩薩は理に相応して、遠き益はありといへども、和光の方便よりも穏(おだや)かなるままに、愚なる人、信を立つること少なし。諸仏の利益も、苦ある者にひとへに重し。されば、愚痴のやからを利益する方便こそ、まことに深き慈悲の色、細やかなる善巧の形なれば、青きことは藍より出でて藍よりも青きがごとく、尊きことは仏より出いでて仏よりも尊(たと)きは、ただ和光神明の慈悲、利益の色なるをや。
古徳の寺を建立し給ふ、必ずまづ勧請神を崇(あが)むるも、和光の方便を離れて、仏法立ちがたきには、かの僧正の意楽(いげう)、かかるおもむきにこそ。
心あらん人、かの跡を学び給ふべし。天竺の釈迦、浄名居士14)、漢土の孔子、和国の上宮聖霊15)、これみな、和光の慈悲、甚深の化儀なり。ただ神明と同じなり。
翻刻
出離神明祈事 三井寺の長吏公顕僧正と申しは顕密の明匠にて道心有人 と聞けれは高野の明遍僧都かの行業おぼつかなく思はれけるま まに善阿弥陀仏といふ遁世ひじりをかたらひて彼人の行儀を/k1-7l
みせらる善阿僧正の房へ参す高野ひかさにはきたかなる黒衣き てことやうなりけれどもしかしかと申入たりけれは高野ひしりと聞て なつかしく思はれけるにやひたひつきしたるけゐによひ入て高野の事 後世の物語なんと通夜せられけりさて其朝浄衣き幣もちて一 間なる所の帳かけたるに向て所作せられけれは善阿思はずの作 法かなとみけり三日か程かはることなしさて事の体能々みて朝の 御所作こそことやうに見奉れいかなる御行にかと申けれはすすみて も申たく侍に問給へるこそ本意なれ我身には顕密の聖教をまな ひて出離の要道を思はからふに自力よはく智品あさし勝縁の力 をはなれてはしゆつりの望とげがたし仍都の中の大小神祇は申に をよはす辺地辺国まてもきき及にしたがひて日本国中の大小の 諸神の御名をかきたてまつりて此一間なる所に請し置奉て心/k1-8r
経三十巻神呪なんど誦して法楽に備て出離の道偏に和光 の御方便を仰ぐ外別の行業なし其故は大聖の方便国により 機に随てさたまれる準なし聖人は常の心なし万人の心をもて心 とすと云か如く法身は定れるみなし万物の身をもて身とす肇 論云仏は非天非人と故に能天能なり然は無相法身所 具の十界皆一智毘盧の全体なり天台の心ならは性具の三千 十界の依正みな法身所具の万徳なれは性徳の十界を修 徳にあらはして普現色身の力をもて九界の迷情を度す又密教 の心ならは四重曼荼羅は法身所具の十界也内証自性会の 本質をうつして外用大悲の利益をたる顕密の意によりてはかり 知ぬ法身地より十界のみを現して衆生を利益す妙体の上の妙 用なれは水をはなれぬ波のごとし真如をはなれたる縁な起し宝蔵/k1-8l
論云海の千波を湧す千波即海水也と然は西天上代の機に は仏菩薩の形をけんしてこれを度す我国は粟散辺地也剛強の 衆生因果をしらす仏法を信せぬたくひには同体無縁の慈悲に よりて等流ほうしんの応用をたれ悪鬼邪神の形をけんし毒蛇 猛獣のみをしめし暴悪のやからを調伏して仏法に入給されは他 国有縁のみをのみ重くして本朝相応のかたちをかろしむへからす我 朝は神国として大権迹をたれ給又我等みなから孫裔也気を同 くする因縁あさからす此外の本尊をたつねは還て感応へたたりぬ へし仍機感相応の和光の方便を仰て出離生死の要道を祈 申さんにはしかし金をもて人畜の形をつくる形をみて金をわする れは勝劣あり金を見て形をわするる時はことなる事なきかことし 法身無相の金をもて四重円壇十界随類のかたちをつくる形/k1-9r
をわすれて体を信せはいつれか法身の利益にあらさる智門はたか きをすくれたりとし悲門はくたれるをたへなりとすひきき人のたけくら へはひききをかちとするか如し大悲の利益は等流の身ことに劣 機にちかつきて強剛の衆生を利する慈悲すくれたりされは和光 同塵こそ諸仏の慈悲の極なれと信してかくの如の行儀ことやう なれとも年ひさしくしつけ侍とかたらる善阿誠にたとき御意楽也 と随喜して帰て僧都に申けれは智者なれはをろかの行業あらし と思ひつるにあはせていみしく思ひはからはれたりとて随喜の涙をな かされけるとなんふるき遁世聖人かたり侍きされは智者大師の 摩訶止観をときて止観と者高尚の者は高尚し卑劣の者はひ れつせんとの給へるかことく和光の垂跡をも高尚の者は高尚す へきにこそ密教の深き意は十界みな無相法身の所現なれは/k1-9l
炎魔の身も毘盧の形も実には四種法身を備へ五智無際智 を具せり其内証に入れは炎魔鬼畜の身をあらためすして自性 法身の心地を開きぬへしされは古徳の云く阿鼻依正は全処極 聖自心毘盧身土不踰凡下一念又三種の即身成仏と者 理具の成仏と者人々本是仏也我執によりてあらはれす諸仏 は顕徳の成仏をとけて自在にりやくをほとこし給加持の成仏と 者已成の仏の三業の妙用をまなもて増上縁として我心に具 足する無尽荘厳恒沙の徳用をあらはすなり信心まことありて 我三業仏の三業に相応する時は行人即ち仏と成るなり村 上の御宇の事にや内裏にて五壇の法を修せられけるに慈慧僧 正は中壇の阿闍梨にておはしけるか御門ひそかに御覧しけるに 行法の中に不動に成て本尊にすこしもたかひ給はす寛朝僧正/w1-10r
は降三世の阿闍梨にておはしけるか或時は本尊と成或時は僧 正と成けり御門これを御覧して不便の事かな寛朝は妄念のをこ れるにこそと仰られける余の僧は只もとのことし経に云一切衆生 皆如来蔵普賢菩薩自体遍故と説きて我等が全体法身也 といへとも差別は迷と悟との故也されは不増不滅経には即此 法身流転五道説名衆生即此法身修行六度名為菩 薩即此法身反流尽源説名為仏といへり今垂迹を思に即 此法身和光同塵名為神明とこそ心えられて侍れ然に本地 垂跡其意おなしけれとも機にのそむ利益暫く勝劣有へしわか 国の利益は垂跡のおもて猶すくれて御坐をやそのゆへは昔役の 行者吉野の山上におこなはれけるに釈迦の像現し給へるを此 御形にては此国の衆生は化しかたかるへしかくれさせ給へと申さ/w1-10l
れけれは次に弥勒と御形現し給ふ猶これもかなはしと申されける 時当時の蔵王権現とておそろしけなる御形を現し給ける時 此こそ我国の能化と申しけれは今に跡を垂給へり釈尊劫 尽の時は夜叉と成て無道心の者をとりくらふて人をすすめて 道心をおこさしめたまふもこの心なり行人の信心ふかくして心を 一にしつつしみ敬ことまことある時りやくにあつかる我国の風儀 神明はあらたに賞罰有故に信敬を厚し仏菩薩は理に相応し て遠き益は有と云へとも和光の方便よりもをたやかなるままに愚 なる人信をたつる事すくなし諸仏のりやくも苦ある者にひとへに 重しされは愚痴のやからをりやくする方便こそ実にふかき慈悲の いろこまやかなる善巧のかたちなれは青ことは藍よりいてて藍よりも 青きかことく尊事は仏より出て仏よりもたときはたた和光神/w1-11r
明の慈悲利益の色なるをや古徳の寺を建立し給かならす先勧 請神をあかむるも和光の方便をはなれて仏法たちかたきには彼 僧正の意楽かかるおもむきにこそ心有らん人かの迹をまなひ給 へし天竺の釈迦浄名居士漢土の孔子和国の上宮聖霊これ 皆和光の慈悲甚深の化儀也只神明と同也/w1-11l