text:senjusho:m_senjusho04-08
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text:senjusho:m_senjusho04-08 [2016/06/11 22:48] – 作成 Satoshi Nakagawa | text:senjusho:m_senjusho04-08 [2016/06/11 22:54] (現在) – [校訂本文] Satoshi Nakagawa | ||
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この阿闍梨、道心深くして、昔、釈尊の御法説き給へりける、鷲峰山((霊鷲山に同じ。))・祇園精舎などの、ゆかしく思ひ給へりければ、日数経て、渡らんずるいとなみのみ侍りけるには、「われも伴ひ奉らん」といふ人、五十余人に及びけるが、幡磨国明石の浦までは、三十人に落ちなり給へり。筑紫にては、みな落い給ひて、ただ、阿闍梨と心寂公とばかり、二人になり給へり。 | この阿闍梨、道心深くして、昔、釈尊の御法説き給へりける、鷲峰山((霊鷲山に同じ。))・祇園精舎などの、ゆかしく思ひ給へりければ、日数経て、渡らんずるいとなみのみ侍りけるには、「われも伴ひ奉らん」といふ人、五十余人に及びけるが、幡磨国明石の浦までは、三十人に落ちなり給へり。筑紫にては、みな落い給ひて、ただ、阿闍梨と心寂公とばかり、二人になり給へり。 | ||
- | 宇佐の宮に詣でて、「舟路のほど、あはれをかけさせ給へ」と祈り給ひけるに、神明、「中天竺の仏法は跡もなし。祇園精舎は虎狼の臥し所(ど)、白鷺池は草のみ茂り、流砂もはげしく、葱嶺((「そうれい」パミール高原))も昔に似ず。仏法すべて形(かた)なし。思ひ留まれ」とぞ、御託宣侍りける。仏法の衰へにけることを悲しみて、阿闍梨も心寂も、それより帰り給へりけり。 | + | 宇佐の宮に詣でて、「舟路のほど、あはれをかけさせ給へ」と祈り給ひけるに、神明、「中天竺の仏法は跡もなし。祇園精舎は虎狼の臥し所(ど)、白鷺池は草のみ茂り、流砂もはげしく、葱嶺((底本「莣嶺」。諸本により訂正する。「葱嶺」は「そうれい」と読み、パミール高原を指す。))も昔に似ず。仏法すべて形(かた)なし。思ひ留まれ」とぞ、御託宣侍りける。仏法の衰へにけることを悲しみて、阿闍梨も心寂も、それより帰り給へりけり。 |
げに心憂きことかな。わが身の参らぬまでも、「昔、御法説かせ給ひし所々の仏法も、盛りに侍る」と聞くものならば、頼もしく侍るべきを、鷲の御山もあせ、白鷺池も草茂り侍るらん、いとど悲しく思え侍り。 | げに心憂きことかな。わが身の参らぬまでも、「昔、御法説かせ給ひし所々の仏法も、盛りに侍る」と聞くものならば、頼もしく侍るべきを、鷲の御山もあせ、白鷺池も草茂り侍るらん、いとど悲しく思え侍り。 | ||
- | 昔、玄奘三蔵の渡天し給ひて、あまねく百三十ヶ国経めぐらせ給へりけるに、大乗流布の国は、わづかに十五ヶ国とこそ承はり侍り。それだに、今に失せにけん。悲しさやるかたなく侍る。人の心の、浮雲に空隠れする月とこそ、常在霊鷲山の心をば歌にも詠みたれ。げに隠れ果て給へるかとよ。今さだ悲しく侍る。 | + | 昔、玄奘三蔵の渡天し給ひて、あまねく百三十ヶ国経めぐらせ給へりけるに、大乗流布の国は、わづかに十五ヶ国とこそ承はり侍り。それだに、今に失せにけん。悲しさやるかたなく侍る。人の心の、浮雲に空隠れする月とこそ、常在霊鷲山の心をば歌にも詠みたれ。げに隠れ果て給へるかとよ。今さら悲しく侍る。 |
されば、日を経て仏法は無くこそならめ。法灯の風にほのめきて、わづかにかかげる時、いかにも、生死を浮き出づるはかりごとを、めぐらし給ふべきにや侍らむ。 | されば、日を経て仏法は無くこそならめ。法灯の風にほのめきて、わづかにかかげる時、いかにも、生死を浮き出づるはかりごとを、めぐらし給ふべきにや侍らむ。 |
text/senjusho/m_senjusho04-08.1465652913.txt.gz · 最終更新: 2016/06/11 22:48 by Satoshi Nakagawa