目次

雑談集

巻5第6話(41) 鐘楼の事

校訂本文

<<PREV 『雑談集』TOP NEXT>>

祇園精舎は兜率天(とそつてん)の一院を移し、唐(たう)の西明寺は祇園の一院を移し、日本の大安寺は西明寺の一院を移せりと云へり。わが朝の諸寺、みなこれを本(もと)とせり。金堂・講堂の中の左右に相対して、鐘楼(しゆろう)・経蔵これを立つ。この作法、その由来いまだ聞かず。私に料簡(れうけん)して云ふ、もつとも相対すべくは見聞の利益なり。経は見(けん)の愚惑(ぐわく)を除き、鐘(かね)は聞(ぶん)の業患(ごふげん)を息(や)むべし。経は見る人まれなり。有智の輩(ともがら)に蒙(かうむ)らしむべし。鐘は聞く輩多し。畜類なほ益あるべし。いはんや人をや。有智・無智ともに益あるべし。祇園精舎の無常院の鐘は、諸行無常の音(こゑ)ありて、これを聞く病人多く癒ゆと云へり。これ苦を除く先蹤(せんじよう)なり。

阿含経に「もし鐘の声を聞かば、三途(さんづ)の苦を休(や)む。(取意)」。付法蔵伝の中に、「月氏国の罽尼吒王(けいにだわう)1)、安息国(あんぞくこく)と闘ひ、九億の人を殺す。後に馬鳴(めめう)の所にて懺悔(さんげ)し、転重軽受(てんぢゆうきやうじゆ)して、大海の中に千頭(せんづ)の魚(うを)となる。空より剣下りて頸(くび)を切れば、すなはちまた生ず。須臾(しゆゆ)に頭(くび)大海に満てけり。羅漢の聖者、鐘を推(つ)くことあれば、剣下らず、苦患(くげん)休(や)みけり。よつて長く鐘をつかしむ。七日ありて償(つぐの)ひおはんぬ。鐘の徳、もつとも大なり。

唐の南山大師2)の師匠、首律師3)の寺に僧あり。この僧、王に随(したが)ひて他国へ往く路(みち)にして卒(そつ)す。妻(つま)が夢に見ゆ。「われ不孝にして、命終(みやうじゆ)して地獄に落ちたり。苦患忍びがたし。しかるに、今月一日、禅定寺の智興律師の鐘を推(つ)く音に、地獄に響いて、われ及び余の衆生、地獄を出でて善処に生まれて楽を受く。彼の恩を報ぜんと思ふ。絹十疋あり。これを進じ、わが志を申(の)べよ」と。両度これを見る。使ひ返りてこのことを云ふ。夢に違(たが)はず。よつて絹を捧(ささ)げて律師に献じ、夢のことを語る。寺僧みな聞ひて、その心を感じて問ふ。律師云はく、「別(べつ)の術(じゆつ)なし。阿含経付法蔵伝の鐘の声の利益を聞いて、三途の苦を休(や)めむことを念じ、冬、鐘楼に上(のぼ)てこれをつくに、寒風肉を切り、血を裂き、掌(たなごころ)の中凝(こご)れども、辞する心なく、当次4)維那としてこれを行ふ。衆僧みな随喜(ずいき)す。

彼の律師は南山同法(どうぼふ)の僧なり。行事抄にこれあり。

<<PREV 『雑談集』TOP NEXT>>

翻刻

  鐘楼ノ事/3-23r
祇園精舎ハ兜率天ノ一院ヲ移シ唐ノ西明寺ハ祇園ノ一院ヲ
移シ日本ノ大安寺ハ西明寺ノ一院ヲ移セリト云ヘリ我朝ノ諸
寺皆此ヲ本トセリ金堂講堂ノ中ノ左右ニ相対シテ鐘楼経蔵
立ツ之ヲ此ノ作法其ノ由来未タ聞カ私ニ料簡シテ云尤モ可相対見聞ノ利
益也経ハ見ノ之愚惑ヲ除キ鐘ハ聞ノ之業患ヲ息ヘシ経ハ見ル人
希也【有智ノ輩ニ可令蒙鐘ハ聞ク輩多シ畜類猶ヲ可有ル益況ヤ
人ヲヤ哉】有智無智倶ニ可有益祇園精舎ノ無常院ノ鐘ハ諸行
無常ノ音アリテ聞ク之病人多ク愈ユト云ヘリ是レ苦ヲ除ク先蹤也
○阿含経ニ若聞鐘ノ声ヲ三途休ム苦ヲ取意付法蔵伝ノ中ニ
月氏国ノ罽尼吒王安息国ト闘イ九億ノ人ヲ殺ス後ニ馬鳴ノ
所ニテ懺悔シ転重軽受シテ大海ノ中ニ千頭ノ魚ト成ル空ヨリ釼
下リテ頸ヲ切レハ即チ又生ス須臾ニ頭大海ニ満テケリ羅漢ノ聖者鐘ヲ/3-23l

https://dl.ndl.go.jp/pid/13386679/1/23

推事アレハ釼下ラス苦患休ミケリ仍テ長ク鐘ヲツカシム七日有テ
償了ンヌ鐘ノ徳尤モ大也  ○唐ノ南山大師ノ師匠首律師ノ
寺ニ僧有リ是ノ僧随ヒテ王ニ他国ヘ往ク路ニシテ卒ス妻カ夢ニ見ユ
我レ不孝ニシテ命終シテ地獄ニ落チタリ苦患難シ忍ビ然ルニ今月一日禅
定寺ノ智興律師ノ鐘ヲ推ク音ニ地獄ニ響イテ我レ及ヒ餘ノ衆生
地獄ヲ出テ善処ニ生レテ楽ヲ受ク彼ノ恩ヲ報セント思フ絹十
疋アリ進之我志ヲ申ヨト両度見之使ヒ返テ此ノ事ヲ云フ夢ニ
タカハス仍絹ヲ捧テ律師ニ献シ夢ノ事ヲ語ル寺僧皆ナ聞ヒテ
感シテ其ノ心ヲ問フ律師云別ノ術ナシ阿含経付法蔵伝ノ鐘ノ
声ノ利益ヲ聞テ三途ノ苦ヲ休メム事ヲ念シ冬鐘楼ニ上テコレヲ
ツクニ寒風肉ヲ切リ血ヲサキ掌中凝レトモ辞スル心ナク当次
維那トシテ行之ヲ衆僧皆随喜ス彼ノ律師ハ南山同法ノ僧也行/3-24r
事抄ニ有之/3-24l

https://dl.ndl.go.jp/pid/13386679/1/24

1)
「罽」は底本「厂」なし。
2)
道宣
3)
智首
4)
底本「次」に「ナミ」と傍書。